ネパールのビール2014年08月20日

ネパールのビール(全文)
古田直哉(演出家・テレビディレクタ:1931-2008)

 四年も前のことだから、正確には「ちかごろ」ではないのだが、私にとってはきのうの出来事よりずっと鮮烈な話なのである。
 昭和六十年の夏、私は撮影のためにヒマラヤの麓、ネパールのドラカという村に十日あまり滞在していた。海技千五百メートルの斜面に家々が散在して、はりつくように広がっている村で、電気、水道、ガスといったいわゆる現代のライフ・ラインはいっさい来ていない。
 四千五百の人口があるのに、自動車はもちろん、車輪のある装置で他の集落と往来できる道がないのだ。しかも、二本の足で歩くしかない凸凹の山道をいたるところで谷川のような急流が寸断している。そこにさしかかったら岩から岩へ、命がけで跳ばなければならないのだ。
 手押し車も使えないから、村人たちは体力の限界まで荷を背負ってその一本の道を歩む。
だから、茂みが動いているのかと驚いてよく見ると、下で小さな足が動いていたりするのだ。燃料にするトウモロコシの葉の山を、幼い子どもが運んで行くのである。
 むかし日本でも、村の共有地である入会山で柴を刈るときは、馬車で持って帰ることなど、禁じられていた。自分の体で背負えるだけしか刈ってはいけない。自分が背負える分量だけ刈るのなら、お天道さまに許される、という思想があったのである。
 時代はちがうが、車をころがせる道がないおかけで、ドラカ村の人びとは結果的に環境保護にもかない、お天道さまにも許される生活をしているわけだ。しかし、むかしのことは知らず、いま村人たちは、自動車の通れる道路をふくむいっさいのライフ・ラインに恵まれていない自分たちの生活が、世界の水準より下だと熟知している。だから、旅行者の眼には桃源郷のように見える美しい風景のなかで、かなりつらい思いで暮らしているのだ。
 とりわけ若者たち、子どもたちには、村を出て電気や自動車のある町へ行きたいという願望が強い。それも無理ではないのであって、私たちにしても、車が使えないここでの撮影は毎瞬が重装備の登山なのだ。車でこられる最終地点から村までは、十五人もポーターを雇って機材や食糧を運んだのだが、余分なものをいっさい割愛せざるを得なかった。
 まっさきに諦めたのがビールである。なにより、重い。アルコールとしてなら、ウィスキーのほうが効率的だ。それを六本、一人一本半ぶんずつ持てば、四人で十目間なんとかなるはずだ、という計算で諦めた。
 しかし、ウィスキーとビールとでは、その役割がちがうのである。
 大汗をかいて一日の撮影が終わったとき、眼の前に清冽な小川が流れているので思わず言った。「ああ、これでビール冷やして飲んだら、うまいだろうなあ」と。
 スタッフ全員で協議した末に諦めたビールのことを、いまさら言うのはルール違反である。しかし、私が口にしたその禁句を聞きとがめたのは、私の同僚ではなくて、村の少年チェトリ君であった。
 「いま、この人は何と言ったのか」
 と通訳にきき、意味がわかると眼を輝かして言った。
「ビールがほしいのなら、ぼくが買ってきてあげる」
「……どこへ行って?]
 「チャリコット」
  -----チャリコットは、私たちが車を捨ててポーターを雇った峠の拠点である。トラックの来る最終地点なので、むろんビールはある。峠の茶屋の棚に何本かびんが並んでいるのを、来るときに眼の隅でみた。
 でも、チャリコットまでは大人の脚でも一時間半はかかるのである。
 「遠いじゃないか」
 「だいじょぶ。まっ暗にならないうちに帰ってくる」
 ものすごい勢いで請けあうので、サブサックとお金を渡して頼んだ。じゃ、大変だけど、できたら四本買ってきてくれ、と。
 張りきってとび出して行ったチェトリ君は、八時ごろ五本のビールを背負って帰ってきた。私たちの拍手に迎えられて。
 ------次の目の昼すぎ、撮影現場の見物にやってきたチェトリ君が「きょうはビールは要らないのか」ときく。前夜のあの冷えたビールの味がよみがえる。
 「要らないことはないけど、大変じゃないか」
 「だいじょぶ。きょうは土曜でもう学校はないし、あしたは休みだし、イスタルをたくさん買ってきてあげる」
 STARというラベルのネパールのビールを、現地の人びとは「イスタル」と発音する、
嬉しくなって、きのうより大きなザックと一ダースぶん以上ビールが買えるお金を渡した。
チェトリ君は、きのう以上に張りきってとび出して行った。
 ところが夜になっても帰ってこないのである。夜なかちかくになっても音沙汰ない。
 事故ではないだろうか、と村人に相談すると、「そんな大金をあずけたのなら、逃げたのだ」と口をそろえて言うのである。それだけの金があったら、親のところへ帰ってから首都のカトマンズヘだって行ける。きっとそうしたのだ、と。
十五歳になるチェトリ君は、一つ山を越えたところにあるもっと小さな村からこの村へ来て、下宿して学校に通っている。土間の上にムシロ敷きのベッドを置いただけの、彼の下宿を撮影し話をきいたので、事情はよく知っているのだ。
 その土間で朝晩チェトリは、ダミアとジラという香辛料をトウガラシと混ぜて石の間にはさんですり、野菜といっしょに煮て一種のカレーにしたものを、飯にかけて食べながらよく勉強している。暗い土間なので、昼も小さな石油ランプをつけてベッドの上に腹ばいになって勉強している。
 そのチェトリが、帰ってこないのである。あくる日も帰ってこない。その翌日の月曜日になっても帰ってこない。学校へ行って先生に事情を説明し、謝り、対策を相談したら、先生までが「心配することはない。事故なんかじゃない。それだけの金を持ったのだから、逃げたのだろう」と言うのである。
 ------歯ぎしりするほど後悔した。ついうっかり日本の感覚で、ネパールの子どもにとっては信じられない大金を渡してしまった。そして、あんないい子の一生を狂わした。
 でも、やはり事故ではなかろうかと思う。しかし、そうだったら、最悪なのである。
いても立ってもいられない気もちで過した三日目の深夜、宿舎の戸が烈しくノックされた。すわ、最悪の凶報か、と戸をあけるとそこにチェトリが立っていたのである。
 泥まみれでヨレヨレの格好であった。三本しかチャリコットにビールがなかったので、山を四つも越した別の峠まで行ったという。
 合計十本買ったのだけど、ころんで三本割ってしまった、とべそをかきながらその破片をぜんぶ出してみせ、そして釣銭を出した。
 彼の肩を抱いて、私は泣いた。ちかごろあんなに泣いたことはない。
 そしてあんなに深く、いろいろ反省したこともない。(終)
※著作権などで問題がある場合は,削除します。

コメント

_ 梅猫 ― 2014年11月07日 19:35

こんにちは。
中学の道徳の教科書に載っていた話で、なんだか心に残っていて、また読みたいなと思っていたところこちらにたどり着きました。アップしてくださってありがとうございます。

今日もネパール料理店のメニューのチラシを見ながらふと思いつき検索してみたのですが、ネパール、と聞くと最初に思い出すお話です。
人を信用することとか、約束を守ろうとするまっすぐな心とか、考えさせられます。

_ luke ― 2014年11月16日 20:22

梅猫さん,コメントをありがとうございます。
久しぶりに心を打たれるいい話でした。
日本人もかつては,この少年のような心を大勢が持っていたと思います。こういう話を知っていることも大切だと思います。もっと知って欲しい話ですね。

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