川瀬巴水の画集2015年03月02日

雪の月島
初めてAmazonのKindle用書籍を買ってみました。
川瀬巴水の版画集です。一冊\99なので,気楽にダウンロードできます。
国立国会図書館の公開しているデータのようですが,自分で集めて本にするにはそれなりの手間がかかるので,まぁ,これでもいいかなと。

iMacやiPad用のKindleアプリがあり,Cloud上のダウンロードされたものを取り込む,という形です。

*昭和初期の雪の月島。月島出身なので,なんかうれしい。ちょうど父が柔道の町道場を開いた頃か・・

武相荘2015年03月06日

武相荘
家内の誕生日だが,特に何も計画していなかったので,町田にある旧白洲次郎邸の武相荘へドライブ。
昔この一帯は農地だったのではと思われるが,ここだけはかつての面影を多少止めているようだ。
夫妻は田舎暮らしを楽しんだのだろうが,一部にモダンを取り入れている。
英国で乗り回していたという同型車も展示されており,粋でハイソな二人の様子が多少想像できる。

読み終えた本「宇宙の扉をノックする」2015年03月13日

読み終えた本「宇宙の扉をノックする」
読み終えた本「宇宙の扉をノックする」(ボブ・ディランの歌と同じ題名)
KNOCKING ON HEAVEN’S DOOR
NHK出版 (2013/11/26)
リサ・ランドール (著), 向山 信治 (翻訳), 塩原 通緒 (翻訳)

ヒッグス粒子が発見された今,ダークマター,ダークエネルギーの解明に向かっているのだろう。著者は「ワープした余剰次元」を掲げており,その解明の糸口となるのかもしれない。他の「力」に比べ,重力は弱すぎるのだそうで,4次元を突き抜けているのかもしれないと。見ることができない5次元の世界とはどんなものなのだろうか・・と頭は千々に乱れるのであった。(阿部)

内容(「BOOK」データベースより)
宇宙の根本的な構造について、物理学の大きなパラダイムシフトが起きようとしている。宇宙についての私たちの理解は、がらりと変わるかもしれない。LHCをはじめとする世紀の実験の成果とともに、最先端の現代物理学が、宇宙の扉を開く大冒険へと読者を誘う。いま、宇宙の起源と運命の謎が、劇的に解明され始めた。

著者について
Lisa Radall(リサ・ランドール)
理論物理学者。ハーバード大学物理学教授として素粒子物理学および宇宙論を研究する。プリンストン大学物理学部、マサチューセッツ工科大学およびハーバード大学で理論物理学者として終身在職権をもつ初の女性教授となる。1999年にサンドラム博士とともに発表した「warped extra dimensions(ワープした余剰次元)」により、物理学会で一躍注目を集め、今日もっとも業績の引用が多く影響力のある理論物理学者のひとりとなる。ディスカバー誌、エコノミスト誌、ニューズウィーク誌、サイエンティフィック・アメリカン誌ほかトップランクの科学誌でその業績がとりあげられ、タイム誌の「もっとも影響力のある100人」およびローリング・ストーン誌の「変革の使者100人」に選ばれたほか、初の著作『ワープする宇宙~5次元時空の謎を解く』(NHK出版)はニューヨーク・タイムズ紙で2005年注目の1冊に選ばれている。米国科学アカデミー、アメリカ哲学会、アメリカ芸術科学アカデミーのメンバー。宇宙の問題について考えていないときは、ロッククライミングやスキーを楽しみ、芸術と科学の橋渡しに貢献している。彼女が脚本を手がけたオペラ Hypermusic Prologueは2009年にパリのポンピドゥーセンターで初演された。2007年の来日時にはNHK BS特集『リサ・ランドール 異次元への招待』でも特集された。その他の著書に小編 Higgs Discovery: The Power of Empty Spaceがあり、これは邦訳「ヒッグスの発見」として電子版『ワープする宇宙』(NHK出版)に特別収載されている。

メモ
p65 ニュートンはガリレオが死んだ年にうまれ、ホーキンスの誕生日はガリレオの300年後の命日に当たる。まぁ,だからどうしたですが・・
p67 ガリレオの時代、望遠鏡は覗きの道具で、スパイ・グラスと呼ばれていた。ガリレオは祭りのオモチャとして貰ったものを、1年足らずで「科学機器」に変えた。ガリレオは顕微鏡での観察も行なっている。
p83 宗教は、隠された究極の目的があるという推定のもとに(何故か)を問うが、科学は(どのようにして) を問う。
p87 膨張宇宙を最初に唱えたのは、カトリックの司祭だった。ジョルジュ・ルメートル
p103 「求めよ,さらば与えられん。・・」文語体になっている
p121 量子スケール
p175 クォークとレプトン、ゲージボゾン+ヒッグス粒子
p191 大型ハドロン衝突型加速器 LHC(ここを見学した冷徹な筆者の絶賛の言葉が続く。)
p239 1984年の発案から、2010年までのLHC建設過程と数々の故障と事故、そして最初の陽子衝突実験の成功まで。
p240- LHCで小さなブラックホールができるのではと真剣に心配する人達がいて、訴訟を起こしたことがあった。
p351 クォークとグルーオンのジェットの状態を、ウェスト・サイド物語の「ジェット団の歌」に例えている。
p369 本当に良いアイデアが、それを思いついた本人に醜いと思われて却下されてしまうこともあるのだ。マックス・プランクは光子の存在を信じていなかったし、アインシュタインも宇宙の膨張はあり得ないと思っていた。その理由の一つが、彼の持つ美意識と哲学的傾向にそぐわなかった。
p397 超電導性が生じるのは、電子がペアになって、そのペアが物質に充満した時で、この超電導体の「凝縮状態」を構成している電子のペアが、ヒッグス場が果たしているのと同じ役割を果たしている。
p440 標準モデルの粒子と力は、高次元空間に存在するブレーンワールドに張り付いているのだろうと考えられる。あらゆる物質や、星も、電磁力のような力も、そした私たちの銀河や宇宙も、すべてブレーンワールドの3つの空間次元の中に存在している。それに対して重力は、常に空間全体に広がっていられる。
p478 宇宙を巡る旅 という章に、「パワーズ・オブ・テン」が登場する。
p490 ハッブル定数 100万光年先の銀河の膨張率は、秒速およそ22km。
p506 宇宙は目に見える物質が4%、ダークマターが23%、ダークエネルギーが73%で構成されている。
p514 宇宙の膨張の仕方は時と共に変わっている。初期のインフレーションの間は指数関数的に急激な膨張を果たしたが,インフレーションが終わると同時に従来のビックバン理論での膨張にとって変わられる。そして現在では、ダークエネルギーが膨張を再び加速させている。
p517 陽子が存在していながら、それと対消滅できる反陽子が見つからないのはどうしてなのか。私たちはその理由を見つけて、物質と反物質の非対称性を理論のどこかに組み込まなくてはならない。
p532 ダークマターの検出器の遮蔽に、18世紀に沈没したからガレオン船に積まれていた鉛の板を使用した。何百年も水に浸かっていた古い鉛は放射性を失っているから。
p559 問題を正しく見極めるには,ときには視点を変えてみることが必要である,という項で,引用している話。ある学生に単位をやるべきかどうかで悩んでいた教師,気圧計を用いて建物の高さを測る方法を答えさせた。その学生の答え「気圧計にひもをくくりつけて地上まで降ろし,それからひもの長さを測ればよい。」答えに物理学を用いるようにせよというと「気圧計を建物のてっぺんから落下させて所要時間を測る」とか「1日の所定の時刻に気圧計と建物の影の長さを測って比べる」とか,しまいには「建物の管理人に,この気圧計をあげるから引き換えに建物の高さを教えてくれと頼む」と答えたという。したたかな学生がいたものだ。
p561 ニュートンが「プリンキピア」の出版を10年も延期したのは、重力の逆二乗の法則を証明するのに微分積分学が必要だったから。ロバート・フックも逆二乗の法則を知っていたが、フックは微分積分学を知らなかった。ダーウィンとウォーレスの例も引いている。

NHKでも放送されたようだ。オンデマンドで観られるだろうか。
BS 「リサ・ランドール 異次元への招待」

訳者あとがき
p584 訳者が「なんと勇気の出る,すがすがしい励ましでしょう。」という著者の言葉,「たとえ最初はよくわからなくても,とりあえずそのまま読み続ける。理解できないことに出くわしたら,そこは飛ばして,とにかく自己流で解釈しながら最後までいき,それから悩まされt部分に戻ってくればいい。夢中になってさえいれば続けられる-----意味がわかることも,わからないことも,すべて乗り越えていけるだろう」

読み終えた本「イチョウ 奇跡の2億年史」2015年03月22日

イチョウ 奇跡の2億年史
読み終えた本「イチョウ 奇跡の2億年史」ピーター・クレイン著
河出書房新社 2014年9月30日
内容(「BOOK」データベースより)
長崎の出島が悠久の命をつないだ!ヒトの役に立ち、敬われてきたからこそ、この愛すべき樹木がたどったあまりに数奇な運命!2億年近く生き延びたあとに絶滅寸前になったイチョウは、人間の手で東アジアから息を吹き返した。その壮大な歴史を、科学と文化から描く名著。

冒頭に、イチョウを詠んだゲーテの詩
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ギンコー・ビロバ

はるか東方の彼方から
我が庭に来たりし樹木の葉よ
その神秘の謎を教えておくれ
無知なる心を導いておくれ

おまえはもともと1枚の葉で
自身を二つに裂いたのか?
それとも二枚の葉だったのに
寄り添って一つになったのか?

こうしたことを問ううちに
やがて真理に行き当たる
そうかお前も私の詩から思うのか
一人の私の中に二人の私がいることを

ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ 1815年9月15日
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著者は、王立キュー植物園の園長を7年間勤め,現エール大学教授。

長崎・オランダ商館付き医師のケンペル、チュンベリ、そしてシーボルトと、イチョウにまつわる話についてかなりページを割いている。
日本における、イチョウの精子の発見。1896年(明治29年)、小石川植物園の平瀬作五郎の研究。受精の瞬間を観察した。
イチョウの雄木には、時に数個の実が成ることがある。絶滅を防ぐ戦略である。
イチョウについては,以前書いたことがあり,興味深い。
http://www.asahi-net.or.jp/~fv9h-ab/kamakura/botanical-essay1.html#Anchor118558
イチョウが絶滅を免れたのは偶然かもしれないが,大絶滅の後にも生き残ったのは,人に依る増殖があったからだ。
絶滅危惧種を救うヒントがここにある。
以下,メモ。

p108 日本一大きなイチョウは、青森県・北金ヶ沢のもので、2004年に国の天然記念物に指定された。

p110 すべての物事には季節があり、天の下のおけるすべての営みには時期がある。生まれるものにも時期があり、死ぬにも時期がある。 伝道の書 三章一-ニ節
天が下の萬の事には期あり、萬の事務(わざ)には時あり。

リンネは虚栄心が強く、尊大な男だったが、生徒達を連れた、ウプサラ郊外への遠足は、音楽や豪華な食事付きで、伝説になっている。

p116 スコットランド・アバディーン郊外のライニーに、ライニー・チャートと呼ばれる堆積岩から、オルドビス紀からの植物化石が多数見つかった。熱水泉の近くだったため、良い状態のものが多い。

p184 世界中でイチョウの化石の発掘が行われ、各地で見つかったが、ヨーロッパでは、フランスなら北はパリから南はモンペリエまで繁茂しているし、ゲーテの家があったドイツでも育っている。しかし北のフィンランドでは育たず、反対に、南のシチリアやギリシャでも育たない。オーストラリアではメルボルンやシドニーの街路では育つが、ケアンズやダーウィンでは見当たらない。イチョウが生育する緯度の範囲は決まっている。

p196 ヨーロッパのイチョウは、寒冷化と乾燥化によって南に移動した。

p204 グレイの研究により、ダーウィンが疑問に思っていた、北米東部と東アジアの植生が似ていることは、地域絶滅にあることが明らかになった。

p233 イチョウが初めて登場する文献は、埃嚢鈔(1446年)で、尺素往来には銀杏とカタカナでイチョウの文字、それに鴨脚。イチョウが日本に到来したのはおそらく1300年頃。

p251 28章 名前をもらう に,何故ginkyoではなくginkgoになったのかが書かれているので,そのまま引用する。
---以下引用
 ケンペルはヨーロッパにイチョウを紹介した時、ギンコー(ginkgo)と言う言葉を使った。なぜこんな奇妙な綴りの単語を使うに至った日については諸説あり、既に多くの文献に書かれている。このことについて理解するためにはまず、彼が滞在していた17世紀後半の日本でイチョウがどう呼ばれていたか、また書き表されていたかを知る必要がある。
 13世紀から14世紀にイチョウが日本にもたらされた時、いくつかの名前が中国から一緒に入ってきた。現在も使われている「銀杏」もその一つだ。日本語は中国の書き文字である漢字を使うから、中国語の「銀杏」をそのまま使えた。ケンペルにとってはなじみのない文字だったが、彼はその文字を『廻国奇観』の本に入念に書き写した。彼は「銀杏」ではなく「杏銀」と書いている。ーーー当時の日本語は、横書きであっても右から左に書いたからだ。そして音訳として、日本人通訳者から聞いた「イツジョウ」と「ギンアン」の二種類を載せた。
 中国の資料にイチョウが初めて登場した時、銀杏と鴨脚という2つの名が使われていた。その後、元の時代に入ると白果、公孫樹,白眼と言う名も使われるようになる。白果は話し言葉として中国で広く使われており、銀杏はどちらかと言えば書き言葉だった。日本では、ケンペルの時代も現在も、銀杏と言う漢字に対して「イチョウ」と「ギンナン」と言う2種類の読み方がある。堀志保美と堀輝三はなぜこんな風に読まれるようになったのかを調べ、もとの中国語である鴨脚と銀杏の発音が崩れたからだろうと推察した。標準的な現代中国語であれば鴨脚と銀杏はそれぞれ「ヤーチャオ」「インシン」と発音する。しかし,新安船(*1323年6月,中国から日本への航海中に沈没した商船で,青磁のほか積荷にイチョウの実が含まれていた)の故郷であり日本との交易が盛んだった江蘇省南部や浙江省北部の方言では、鴨脚は「アイチョウ」と,銀杏は「ニンアン」と発音する。
 ケンペルが書いた「イツジョウ」と現代日本語の「イチョウ」、同じく「ギンアン」と「ギンナン」のつながりは説明するまでもなく明らかだ。だが、ヨーロッパにおけるギンコー“ginkgo” という言葉はどこから来たのだろう?堀志保美と堀輝三はその答えを日本語に特有の性質に求めた。日本では、中国から輸入した漢字に、かなと呼ばれる表音文字を当てることがある。
 銀杏と言う漢字に対応するかなを、15世紀から18世紀に日本で出版された辞書や書籍で調べた堀志保美と堀輝三は、驚くべき発見をした。「銀杏」の読み方は、ほぼ全ての文献で「イチョウ」または「ギンアン」、あるいはそれによく似た発音が記されている。ところが、ケンペルが滞在していた頃広く使われていた17世紀の絵入り辞書二点においてのみ、「ギンキョー(ginkyo)」と言う読み方が載っていたのだ。1617年から1619年ごろに再販された辞典『下学集』には銀杏の発音として「イチョウ」と「ギンキョー」が載っており、1666年に出版された『訓蒙図彙』には「ギンナン」と「ギンキョー」が載っている。
 史学者A・C・モールは1940年代に、現在は大英図書館に収蔵されているケンペルの原稿を調べた。ケンペルがギンコー“ginkgo” と名付けた植物についての言及は10カ所あった。うち、1カ所で「図版集キンモチジュイからの引用」と書かれていた。堀志保美と堀輝三は、このキンモチジュイとは明らかに『訓蒙図彙』ーきんもうずいー のことであり、ケンペルがこの図版集を日本滞在中に手に入れたのだろうと判断した。ケンペルは、日本にいる間も、帰国後に『廻国奇観』を執筆している時も、『訓蒙図彙』を参照していたということだ。そして『訓蒙図彙』に載っていた「ギンキョー」と言う発音から、ギンコー“ginkgo” と言う語を作ったのだろう。その後、リンネが承認したことで、この17世紀で国際的に最も有名な日本語となった。
 最後に残った謎は、なぜケンペルはギンキョー“ginkyo”ではなくギンコー“ginkgo” としたのかだ。ケンペルは自著の序文で、日本語の長文を一字一句間違えずに書き写している。彼は日本語とその読み方、その読み方を文字で書くときの法則について、詳しく調べていた。そこまで神経をとがらせただけあって、ケンペルの『廻国奇観』にアルファベットで書かれている植物名は17世紀の日本での発音にかなり忠実だと、堀志保美と堀輝三は認めている。なのになぜ、ケンペルはイチョウに限って綴りを一文字、変えたのだろうか。
 これを、単なるミススペルだと片付ける人は多い。ケンペル本人が間違えたのかもしれないし、植字工が間違えたのかもしれない。だが、堀志保美と堀輝三は、ケンペルが意図的にこのスペルを採用した可能性を指摘する。ギンコー(ginkgo)の2番目の「g」はケンペルがドイツ北部の出身であることに関係していると言うのだ。ドイツ北部の方言では、ヤ・ユ・ヨの発音を「g」で書き表すことが多い。例えば,「ユット」と聞こえた単語を「gut」と書く。それと同じように、ケンペルは聞こえたままの「ギンキョー」を故郷の綴りで「ginkgo」と書いたのではないだろうか。
----以上

*これで謎が解けたかに思ったが ,本書の注にはまた別の説が書かれている。
28章注(4)
「ginkgo」の2番目の“g”が,ドイツ北部の方言の問題だという考え方は興味深いが,ケンペル研究の学者ウォルフガング・ミヘルは,ケンペルが別の日本語,たとえば,“kyo” や“kyo(oの上に-の長音)” が入っている植物名で,きちんと“y”を書き写している点を指摘し,ケンペルが間違えたという説を推している。以下参照,Wolfgang Michei's Research Notes(Michel,2009).ほかに,ケンペルは専属通訳の今村源右衛門の発音,つまり当時の長崎で話されていた方言の音に忠実に従っただけという説もある(Van der Velde,1995)。たとえばイチゴは,現在でも長崎の方言では(tzingo)と発音する。これは,ケンペルが『廻国奇観』に書いたのと同じ綴りである。(法政大学の長田敏行による私信)。

参考
堀 輝三(ほり てるみつ)
1938年生まれ
1967年東京教育大学院理学研究科植物学専攻修了
1969年東邦大学理学部
1978年〜
2002年まで筑波大学生物科学系

堀輝三の著書(写真集)
写真と資料が語る総覧・日本の巨樹イチョウ--幹周7m以上22m台までの全巨樹 単行本 2005/12
堀 輝三 (著), 堀 志保美 (著) 出版社: 内田老鶴圃 (2005/12)

p254 ケンペルの膨大なコレクションは、死後、ハンス・スローンのものとなり、ロンドンにある。

p268-278 オスの木ばかりだったイチョウに,メスの枝を接ぎ木することで種子が得られた。ヨーロッパへはおそらくオランダから広まっていき,ベルギー,イギリス(もちろんキュー植物園)に植えられ,フランスへはロンドンの園芸業者を酔わせて破格の値段で買取り,フランスへ運んだが,その時の値段40クラウン(120フラン)にちなんで「40エキュの木:ラルブル・ド・カラント・エキュ」となったという。世界中にイチョウは広まり,広瀬作五郎の受精の研究により,さらにブームとなった。現在では,イチョウの栽培品種は220にものぼり,うち28種は種子を見ただけで品種が判別できるという。盆栽も人気で,「乳」からとって挿し木にしたものは,特に珍重される。「乳」は古木にしかできないからだ。(先般訪れた,三崎の海南神社のイチョウには立派な乳があった)

p283 イチョウは,台木に,若葉が出る直前のメスの枝を何本か接ぐことで,上に伸ばさずに,低く枝を張るようにできる。トポフィシス効果という。

p286 ケンペルは「日本誌」で,日本ではギンナンから油をとっていたと述べている。

p288 筆者は鶴岡八幡宮の屋台で焼いたギンナンを食べたことがある。

p318 オーストラリアのウォレミマツ(110個体)が,苗木を売り出したことで世界中で増え,絶滅を防いだ。イチョウは人に育てられたことによって,絶滅を免れた。メタセコイアも同様だ。「生息域外保全」という手法。

p322 種の保全に関して「介入できることがあるのにそれをしないで種を絶滅させることは,本の読み方をおぼえたら図書館は焼いてしまってもいいという考え方に等しい」。種が絶滅するたびに,私たちの世界とそこにあるすべてがどのようにして形作られてきたのかという証拠が消えていく。

p329 生物多様性条約は,大国のエゴと,発展途上国との利害がぶつかり合って,方向性が定まっていない。

アーネスト・ヘンリー・ウィルソンの名が度々登場するが,屋久島のウィルソン株にその名を残す。
(Ernest Henry "Chinese" Wilson、1876年2月15日-1930年10月15日)は、イギリスのプラントハンター。約2,000種のアジアの植物を、ヨーロッパ、アメリカ合衆国に紹介した。約60種に彼の名前がつけられた。屋久島の胸高周囲13.8mの切り株、「ウィルソン株」を調査、西欧に紹介したことでも知られる。Wikipedia

参考図書 本書の解説者(長田敏行:元東大附属植物園長,現法政大学教授)
「イチョウの自然史と文化史」(裳華房,2014年2月)

読み終えた本「そして最後にヒトが残った」2015年03月27日

読み終えた本「そして最後にヒトが残った」
読み終えた本「そして最後にヒトが残った」
クライブ・フィンレイソン (著), 解説:近藤修 (その他), 上原 直子 (翻訳)
白揚社 (2013/11/9)

内容(「BOOK」データベースより)
地球に存在した20種以上の人類の仲間のなかで、なぜヒトだけが生き延びることができたのか…古人類学の第一人者が数々の新発見とともに語る壮大な人類の物語。

メモ:
p8 現生人類とネアンデルタール人が枝分かれしたのは、50万年前。

p11 私たちは、どうして生き残れたのか?それはただ、運が良かったからにすぎない。たまたま適切な時に適切な場所にいた結果だ。

p35 ジブラルタルでの人口調査。干ばつの時、普段から汚れた水を飲んでいた貧困層が生き延びた。

p55 膝を伸ばして立てるのは、ヒトとオランウータンだけ。おそらく、二足歩行は樹上で既に始まっていただろう。

p57 ゴリラ、チンパンジーのナックルウォークも進歩の一つ。

p66 ホモ・ハビリスとホモ・エレクトスは50万年同じ地域で暮らしていた。従って、ホモ・ハビリスからホモ・エレクトスへの進化は成り立たない。

p74 177万年前の、ホモ・ゲオルギクスの歯が1本しかない個体があった。歯を失った後、死の数年前まで、仲間が介護していたことをうかがわせる。

p116 各国の子供は、個人的な好みが発達する以前は、様々な生息環境の写真の中で、サバンナの写真を最も好んだ、という生物学者の実験がある。

p118 ボルネオ島のニアの洞窟には、4万年前から現生人類が暮らしていた。気候は今よりも過ごしやすいものだった。

p145 現生人類は、ホモ・エレクトスと共存していた。

p148 ネアンデルタール人には、赤毛のものも一定数いたと思われ、赤毛には白い肌がつきものだという点で、ヨーロッパのネアンデルタール人はビタミンDを合成し易かっただろう。遺伝子から、発話できた可能性がある。ネアンデルタール人と早期現生人類が13万年前に中東にいた。

p160 ネアンデルタール人の祖先といえるハイデルベルク人は、身長180cm、体重100kgの頑丈な身体で、狩りの名人であったが、寒冷・乾燥化により絶滅した。

p164 ネアンデルタール人は、4万5000年前、大陸にツンドラステップが広がると、イベリア半島、バルカン半島、クリミア半島、カフカス地方、そしてジブラルタル海峡北岸に散り散りになって生き延びた。それらはところどころに森林が残っていたからだ。その頃、ホモ・エレクトスとホモ・フロレシエンシスはまだ東南アジアで少数が生き残り、現生人類はユーラシア大陸へと進出していた。

p208 ジブラルタルのゴーラム洞窟には、ネアンデルタール人が居住していた。2万8000〜2万4000年前まで焚き火をしていた。海面は現在より80〜120mも低く、食糧は豊富だった。
筆者はネアンデルタール人のゲノムからは現生人類の遺伝情報が見つからないことから、交雑はなかったと言う立場をとっている。(その後の研究で交雑があったことが分かった--後述)

p217 中央アジアのネアンデルタール人が消えたあと、現生人類は大繁栄することになる。起源となった集団は、4万〜3万5000年前に現れた特有な遺伝子マーカーを持っていた。これにより、西(ヨーロッパ)へ拡散したのは3万年前とわかっている。

p220 3万〜2万2000年前の黒海北岸のグラヴェット文化。マンモスを狩ったのはトナカイ少ない時期。それ以前のオーリニャック文化より、芸術が高まった。

p233 グラヴェット文化人は、植物繊維で織物、かご細工、縄、おそらく網も作っていた。網でウサギを大量に捕まえていたらしい。

p235 ネアンデルタール人の体格は、気候変動によって迫られた、長距離の移動には向かなかった。

p241 最古のイヌ、ロシアのブリャンスク地方のエリセエヴィチ1号遺跡、1万7000〜1万3000年前の、シベリアンハスキーに似た二頭のイヌの頭骨が出土した。ミトコンドリアDNAからは、イヌの起源は13万5000年前かもしれないという、研究結果がある。

p245 生活様式の変化が人口を増加させ、数で圧倒した。

p258 温暖化と寒冷化を繰り返して、9000年前から氷期へ戻らなくなった。

p274 地図作成仮説と社会脳仮説。

p276 未来は予測できない。大多数の、と言うよりも、おそらく全てのデザインは、どれほど完璧に現状と適合していようとも、やがて十分に時間が過ぎれば、いつかは絶滅の恐怖に直面するものなのだ。

ジャレド・ダイヤモンドの著書(銃・病原菌・鉄」)を例にひいている。これは以前読んだ。
http://luke.asablo.jp/blog/2013/11/24/7073376(上巻)
http://luke.asablo.jp/blog/2013/12/04/7109007(下巻)

農耕民の数は、狩猟採集民の数を圧倒していただろう。

p282 非常に鋭い指摘なのでそのまま引用する。
「9000年前を過ぎて気候が安定すると,人類は,環境の変化というよりも新しい技術の発明によって,自らの勢力範囲を広げるようになった。こうして新しい技術のおかげで繁栄が約束されることがわかると,世界をどこまでも発展させられるという幻想が生まれた。発展という人類の夢が,次第に悪夢と化していくのはこの時からだ。人類の果てしない欲望は地球に危機をもたらすものと私には思えるが,今日,この問題は先送りされたままである。 私たちはどうしてこのような危険な状態におちいってしまったのだろうか? その答えは,人類が現在までたどった道をみればわかるかもしれない----私たちは進化に選ばれたスーパーヒーローというよりは,隙あらばどんな場所にでも侵入する病原菌のようにふるまってきたのだから。 人類の物語で重要だったのは,未来をてなずけることだった。だが,ここで思い出して欲しい。私たちはたしかに成功した集団として今日まで残ってきたが,これまでの暮らしをみれば,豊かな環境を独占していた集団に常に周縁部に追いやられていたのではなかったのか。私たちは,生き続けるために余り物を必死にあさるような貧しい祖先から生まれてきた。人類が進化の頂点にあると思っている人たちには不名誉に感じられるかもしれないが,それが歴史の厳然たる事実なのだ。予測できない筋書きをたどり,最終的に現在の私たちにつながった一歩一歩は,周辺部に暮らす多くのイノベーターたちによって刻まれた。その大半は途中で姿をけすことになるが,ひとつの集団は生き残って物語を伝えることができた----それが私たちなのである。」

p290 数百万年かけて作り上げられた生態と、わずか数千年に発達した現代の生活様式の間で、ミスマッチが生じてきた。

p291 では、すべての崩壊するときに生き残るのは何者なのか?歴史が示すように、それは安全地帯に住んでいる者たちではなさそうだ。
巻末の解説に,最新の研究結果が述べられている。それによると,2010年に,マックス・プランク人類進化研究所が,クロアチアから出土した3万8000年前のネアンデルタール三体分のゲノム配列を解読した結果,サハラ砂漠以南の現代アフリカ人以外の現生人類との交雑があったことがわかった。その割合は1〜4%であった。また,シベリアのデニソワ人とも交雑したことがわかった。核DNAの解析結果から,約80万4000年まえにデニソワ人とネアンデルタール人の共通祖先が現生人類と分岐し,その後にネアンデルタールとデニソワ人が約64万年前に分岐した。メラネシア人は4〜6%のゲノムがデニソワ人と共通であった。

*我々の中にも,絶滅した人類のDNAが受け継がれているのだ。

良心なき快楽は罪だけど,これは違うのだ2015年03月28日

今日は暖かかったので,読書の後,3時過ぎにいつものコースをジョギング。もう誰も見るもののない,すっかり葉桜となったカワヅザクラの並木の日陰を走っても寒くはない。南の風なので,むせるような菜の花の香りもない。
誰と競うこともないし,記録を縮める必要のない,歩くようなジョギングは心地よい。もう,なにも頑張る必要がないというのは快楽だ。これを楽しまなくちゃ。(^_^)
ガンジーは「良心なき快楽」は社会的な罪の一つだと云った。この快楽はそれには該当しないなぁ,などと取り留めのないことを考えながら,とぼとぼと走る・・・サウナの後は,冷えたビールが待っているのだ。これでいいのだ!

塚山公園で花見2015年03月30日

安針塚
ちょうど三浦按針に関する本を読んでいたので,良い機会だと,花見に家内と安針塚へ。(神奈川県・横須賀市逸見)
ニリンソウが咲いていた。濃いピンクの花はツツジの仲間だそうだ。
安針塚は墓ではなく,逸見駅近くの浄土寺にあった供養塔を移したもの。按針は平戸で亡くなったので,遺体は平戸で埋葬された。この供養塔は,日本人妻の雪と,その子ジョゼフかスザンナのものだろう。
平日で人は少なかったが,桜は満開の少し前で見頃。持参したビールとウィスキーで良い気持ちになる。案内所にイノシシが出るとの掲示。だいぶ前から地元では話題になっている。
展望台からは海軍基地もよく見える。ジョージ・ワシントンが入っていた。全長を御存知か。333mである。排水量は10万トンを超え,26万馬力,搭載機は最大85機。もう一つの浮かぶ基地がここにある。良いのか悪いのか・・
京急の安針塚から歩いて来たので,帰りは逸見駅へ。駅の手前の鹿島神社に寄った。ここは按針の息子ジョゼフが社殿を造営したもの。すぐ近くの按針の菩提寺とされた浄土寺へ。ここには何も説明するような看板はない。ちょっと不思議。
電車と送迎バスで,走水の京急ホテルの牡蠣小屋へ。
焼き牡蠣,ホンビノスガイ,牡蠣のアヒージョ,牡蠣ご飯など。スペインの白ワインで。生ビールがないのが残念。
*アヒージョは美味いので,家でもやってみよう。牡蠣の燻製を漬け込んだオリーブ油を使えば更に美味かろう・・うひひ。

読み終えた本「日本に来た最初のイギリス人」2015年03月31日

読み終えた本「日本に来た最初のイギリス人」
読み終えた本「日本に来た最初のイギリス人」
P.G. ロジャーズ (著), 幸田 礼雅 (翻訳)
新評論 (1993/09)

p36 リーフデ号の積荷には,五百挺の火縄銃,五千発の砲弾,三百発の連鎖弾,五千ポンドの火薬,三百五十本の火矢などがあり,家康は関ヶ原の戦いでこれらを使用した。(この本には記載がないが,この戦いでは船の砲や砲員を活用し,西洋式の甲冑を具足に仕立てたと記録にあるそうだ)

p83 アダムズは、オランダ人には便宜を図った。この頃、イギリスも東インド地域で交易を始めつつあることを、オランダはアダムズにはふせていた。アダムズが故郷に託した手紙は全て握りつぶされた。

p99 アダムズの書簡は、遺書も含め、全部で10通残っている。

p127 1623年の東インド会社に送った手紙には、家康から帰国の許しを得た、とあった。にも関わらず、機会があったのに帰国しなかった。アダムズが、結局帰国しなかった理由について筆者は、日本にいれば社会的に傑出 した、多大の影響力を持った人物でいられるのに対し、帰国すれば一介の船長か舵手に戻らざるを得ないと言う認識があった、さらに日本人の妻子を捨てる気もなかったのだろう、と述べている。

p144 シャムへの旅の帰り、アダムズは琉球から甘藷を持ち帰り、平戸の商館の庭に植えた。
家康は、平戸にイギリス商館を許可するが、家康の死後、秀忠は、平戸以外に、イギリスの貿易拠点を認めなかった。商館長コックスは、アダムズがオランダとスペインに対してより、英国人に対して冷たい態度を取ることに承服できなかったが、事実は、家康の命令を優先していたからで、コックスの疑いは根拠のないものだった。

p167 平戸でしか商売の出来ない英国商館に代わって、アダムズ個人のものと偽って、東インド会社の商品を各地で売りさばいてやり、会社の債権を京都その他で取り立てている。
また、御法度だった武器弾薬のシャムへの輸出を、大老・酒井忠勝に認めさせている。この時、アダムズは既に商館員ではなかったにも関わらずだ。

p127 1618年、イギリス船がオランダ船に拿捕され、積荷の貴重な一部が奪われる事件があった。コックスは国際法違反を訴えるため江戸に向かったが、アダムズはオランダを訴えても身のためにならない,むしろこの一件は早く忘れる方が良い,といった。馬で一行を迎えに来たアダムスと秀忠に貢ぎ物を届けに江戸城へ参内した。しかし,秀忠はじめ側近たちは,アダムズに対して取り合わないという仕打ちをするばかりだった。それ以前,イギリスが雇った日本人通訳は,アダムズに恨みがあるのか,将軍(秀忠)への献上品をもっと立派なものがあるのに出し渋って安いものにした,というような中傷を行なっており,他のイギリス人も幕府から不利な扱いを受けることになった。また,秀忠は家康以上にカトリックを嫌い,偶然,アダムズの取引相手であるスペイン人を自宅に泊めたことが,宣教師をかくまっているという噂になり,将軍の耳に入ったという不幸なことも重なった。

コックス商館長は略奪品に対するオランダへの制裁を将軍に求めたが,将軍は暇がいくらあっても,狩りに出かけるなどして会うことをしなかった。しびれをきらしたコックスは平戸へ帰ってしまうが,アダムズは2ヶ月も江戸城で将軍の沙汰を待った。その結果は「日本の外海で起きたことなので我が国は関知しない」というもので,御朱印の継続も叶わなかった。
それでも秀忠は一度だけアダムズを城に呼び寄せた。それは彗星が出現したからで,アダムズにその理由を問うた。アダムズは「戦争の予兆ですが,日本ではなく外国のものです」と答えた。事実,其の頃,30年戦争が起きている。その後,秀忠はアダムズとの関係を完全に絶った。アダムズは幕府からは不要のものになってしまった。

p180 ほどなくしてアダムズは亡くなった。1620年5月16日,平戸であった。最後の航海ののち,病気になったが,病名などは商館員イートンの日記にはない。
今際の際に,アダムズはコックスとイートンを病床に呼び寄せ,遺言状に署名した。遺言には遺体は本国に埋葬してほしい,財産の半分は母国の妻子に,半分は日本の妻子にと認めている。コックスが書いているが,英国の夫人が再婚した時に,アダムズの遺産を連れ合いが独り占めしないように,英国の妻と子に等分するようにした。アダムズの動産はかなりの額(500ポンド)になり,アダムズはかなりの金持ちとして亡くなった。

アダムズは英国にも土地財産を持っており,英国のアダムズ夫人の暮らし向きは悪くなかったようで,東インド会社もアダムズの給料から天引きして夫人に渡され,またアダムズ自身も仕送りしていた。英国のアダムズ夫人は,日本人妻のことを知っていたのかどうかはわからない。
日本の妻子の消息はよくわかっていないが,英国のアダムズ夫人は針職人と再婚している。
逸見に二つの墓があったが,伝承は失われた。開国後の1874年,英国商人ジャームズ・ウォルターが浄土寺にこれを発見した。プリンス・アーサー・オブ・コンノート(ヴィクトリア女王の子),有栖川宮威仁(たけひと)親王らにより,墓が修復された。
ただ,この墓はアダムズ夫妻のものではなく,妻(本書にはマゴメとあるが,これは苗字で,名は雪)とその子のものかもしれないが,妻の死後,平戸から遺骨が運ばれたかもしれないとある。息子のジョゼフは三浦按針の名も継ぎ,逸見の領地を継ぎ,船乗りとしてシャムに出向いている。娘のスザンナについては,コックスがタフタ生地一反を送ったという記録があるのみ。

アダムズの生地,ケント州ジリンガムに記念の時計塔が建ったのは1934年のことである。
平戸の英国商館を閉鎖したのは,採算が合わなかったこともあるが,平戸の商館長はじめ,館員が遊興三昧だったため,館員たちは日本を離れたくなかった。また,彼らがバタヴィアの委員会の命令に従わなかったためだった。最後には退去が強制執行された。東インド会社に借金のあった大名たちはやんわり棒引きを申し出たらしい。ヴァタビアに出航するときは,日本人も含め,仕事仲間は泣いて別れを惜しんだ。商館長を解任されたコックスは,ヴァタビアからロンドンに向かう船中で病死した。

イギリス商館の失敗は,結局,コックスの杜撰で無能な経営と,アダムズの助言を無視して平戸に商館を開いたことにあるが,競争相手のオランダが強すぎたことが本当の原因だろう。

あとがきの後に,アダムズのかなり長い手紙が掲載されている。按針に関するほとんどのことは,この手紙を元に書かれているのだろう。本書は比較的簡潔に書かれており,以前読んだジャイルズ・ミルトン著「さむらいウィリアム」の方が,はるかに筆が立って面白い。

ajillo2015年03月31日

ajillo
燻製用のベビーホタテとパスタ用のアサリを買ったので,ホタテ,アサリとキノコのアヒージョをやってみました。燻製牡蠣を漬けたオリーブ油を使いましたが,燻製の香りはほとんど感じません。期待したほどのことはない。
常備菜用に買ったキノコしかないので,ブナシメジとエリンギのみ。家内のリクエストで唐辛子はなし。
昨日の残りの白ワインで。パンがフォカッチャだったのですが,これでも,当然美味い。
*思い出してみると,有楽町のスペイン・バルとか,サイゼリアでたこ焼き器に入っていたそれを食べたことがあったなぁ・・(^_^;)

*アサリはジェノベーゼ・ソースで家内がパスタを作ってくれましたが,これが正解。