静嘉堂文庫美術館と等々力渓谷散歩2015年12月04日

静嘉堂文庫美術館
二子玉川にある静嘉堂文庫美術館に家内と行ってきました。
http://www.seikado.or.jp
リニューアルオープン展第一弾と称しての展示。
http://www.seikado.or.jp/exhibition/constitution.html

目玉は修復を終えた国宝 俵屋宗達「源氏物語関屋・澪標図屏風」ですが,他に光琳,抱一,其一,乾山,仁清,羊遊斎,文晁などなど,逸品ばかり。入り口には常設でしょうか,国宝の窯変天目茶碗など。
作品を単眼鏡で細部を見ると,抱一の超絶な筆使いや,羊遊斎の印籠の超微細な細工に驚きました。

帰りに等々力まで足を伸ばして,前に歩いたことがある家内の案内で等々力渓谷を散策しました。雨の後で道に水が浸み出していましたが,一部に紅葉もありで,私は初めてだったので,楽しめました。
3号横穴は墓だそうで,良く保存されています。
帰りには流れにカルガモが4羽いました。

そういえば,美術館に行く前に鴨南蛮を食べたのでした。(^_^;) 合鴨ですけどね。

読み終えた本「ニッポン日記」マーク・ゲイン著2015年12月07日

ニッポン日記
読むのに時間がかかった。終戦後の日本を米国の記者が日記にしている。非常に興味があった。

ニッポン日記
マーク・ゲイン著 筑摩叢書12 筑摩書房 1963年

1945年12月に厚木飛行場に降り立ち、その後一年余り日本に滞在した、主としてシカゴ・サン紙に記事を書き送った記者が、占領時日本の体験を日記としてまとめたもの。
講和条約発効前に翻訳出版された。この本によると,米国はこれほどあっさり日本が全面降伏するとは思っていなかったようで,占領政策も憲法も急ごしらえ。さらに日本の政府はしたたかで,占領軍が進駐してくる前に,様々な策略を講じて戦犯にされそうな人員を配置しなおし,財閥の財産は見事に分散させ,大量の軍の物資は隠匿した。日本はわずかの期間に準備を整えてから占領軍を迎えた。翻弄されたのはむしろ占領軍だった。占領軍内部での政策の不一致や内部対立があり,日本政府はGHQの命令にもサボタージュで応戦するしで,ほとほと手を焼いたようだ。占領軍よりも既存の日本政府の情報網・指令系統の方が完璧で,ことごとく裏を書かれたことが随所にみられる。この本が戦後ほとんど顧みられていないのは残念。
日本の戦後は,GHQによって解放された左翼活動家が,かえってGHQの思惑とは別な方向へ進んでいくのを,GHQ自身が戸惑いながら押さえつけていたことがよくわかる。
筆者はGHQのやり方には常に批判的で,当局からはかなり睨まれていたようだ。
筆者の本名はモウ・ギンズバーグといい,亡命ユダヤ系ロシア人で,のちに容共の疑いでジャーナリズムからは追放されている。

以下,メモ
p19 1945/12/10
農地改革法の準備 マッカーサー(本書ではマックアーサー)元帥は部下に指示を出して、部下はさらに煎じ詰めて新聞に載るようにしろと,自分の部下に指示を出した。「・・・書き上げたものは、マッカーサー元帥の他のあらゆる指令のご多分にもれず、この指令も人間の尊厳だとか、封建的発生の数世紀だとか、経済的束縛だとか、彼らの労働の果実だとか言ったお見事な決まり文句が随所に出てくる。しかし、これをを書き上げた将校たちは、これらの決まり文句が、日本人に爆発的な威力を持つことを、充分意識して書いたのである。」

p24 読売新聞の争議。新聞の民主化要求に、社主の正力松太郎は激怒し、先頭に立つ五人の幹部の首を切ったが、マッカーサーで命令が下り、戦犯として逮捕される。

p29 国家神道の廃止 天皇の神社への公式参拝は禁止されたが、「私的参拝」は禁止されない。公的か私的かは天皇自身の判断に任せられたので、つまり、見かけは今まで通り。

p30 12/16 近衛公爵の自害はこの日。ページを割いて詳しく経緯を記述している。周囲は公爵の自害を予想していたと感じた。

p66 酒田の警察署 署長に「追放された特高の連中はどうなったか」と聞いたら、米軍との連絡係をしているとの返事。
女子幼稚園に粘土製の手榴弾。文部省承認の張り紙。体操に使うと園長。

p88 1945年の大晦日から、信州・小諸周辺で「突然の捜索」旅行を計画したが、どこへ行っても事前に手を回されていて、接待の準備ができていた。
*日本には連絡網があり、占領軍のそれを上回っていた。日本人は一枚上手だった。

p105 農地改革について、小作人たちの意見を聞くために、信州・湯田中温泉の宿に泊まった。そこで戦中、社会主義者として投獄された経験者達と会食。席上、鷲見と言う男がI.W.W.の歌をうたうと言った。著者が聞き返すと、それは世界産業労働組合のことで、1905年に結成された米国の労働組合運動の象徴的な歌、The Preacher and the Slave.という歌だとわかった。著者にも聞き覚えのあるメロディなのだ。内親王が宿泊したこともあると言う宿で、著者は、まさかこのような歌を聴くとは思わなかったらしい。

p114 大阪の軍政部ロック少佐「財閥を解体したり、重い賠償を負わせたりすることは、かえって戦後の日本の統治をうまくいかないものにする。」と言った後、「まだ他にもある。自分自身をはぐらかすのはよそう。我々は強力な日本を必要とする。なぜなら我々は近い将来ロシアと愛大差なければならないし、同盟国を必要とするに至るだろう。日本がそれだ。」

p117 若松刑務所の視察。「刑務所内は甚だしい悪臭で、その烈しさは吐き気をもよおすほどだった。そこは17世紀の真っ只中にあった。」

p117 「日本は無方針に降伏したのではなかった。日本の支配者たちは降伏を決めるとすぐさま、その緻密かつ能率的な政府の全機構をあげて、まさに誓約せんとする勝利者への誓いをいかにごまかすかという仕事に没頭し始めた。彼らは降伏宣言と最初の米軍部隊到着との間の二週間の間隔を、甚だ巧みに利用した。証拠書類は焼却され、政府の資金は最も利用価値のある箇所にまき散らされ、高価な物資は隠匿された。また征服者の命令がどんなものであろうとも、政府機構はそこなわれないようにとの詳密なプランが立てられた。」
特高の関係者は追放の指令が出る前に全員辞職し、政府はすぐさま別の警察署長に任命した。
*著者は日本のどこに行っても、したたかな日本政府のやり方に遭遇し、バカにされたような気分を味わったことだろう。

p122 ホイットニー准将の「憲法制定会議」、・・「しかし新憲法は大体において、まさに廃棄されんとする明治憲法の型(パターン)を踏襲した。新憲法(草案)は2週間で作られた。」
ある日、ホイットニー准将、ケイディス大佐、フッセイ司令官は、松本烝治、吉田茂、通訳の白洲次郎に憲法草案を突きつけた。松本案はGHQに一蹴され、GHQ案を討議する前にこれを読むために15分間の時間を与えた。15分後、「日本人たちは、雷にうたれたような顔つきをしていた。通訳の役をつとめた白洲は、実際に口をあけても何の音も出てこなかったことが何回もあった。」(フッセイの詳細な記録による。)
*占領軍側当事者の、生々しい描写に臨場感がある。

マッカーサー自身が書いたという軍備放棄に関する規定のあるこの憲法を、筆者は、占領終了後には日本は何らかの口実を付けて軍隊を再建するだろうから、この欺瞞に満ちた憲法は断じて永続しない、と述べている。
*確かに軍隊は事実上再建されたが、憲法は一度も改正されなかった。

p126 熱海で87歳になる尾崎行雄と会見した。日本の将来についてしつこく質問したが、尊敬する尾崎の頭の中は半世紀遅れていた。

p155〜 1946年4月
*戦後初の総選挙「前夜」の騒然とした状況描写は見事で引き込まれる。
旧首相官邸(フランク・ロイド・ライト設計)に、左翼代表が幣原首相に会見を迫って騒動となる。警官はデモ隊に圧倒され、殴られたりし、拳銃を20発も威嚇発砲する。結局デモ隊に官邸に押し入られ、その時、群衆を追い払ったMPに抗議した荒畑寒村はPMに地面に叩き伏せられるなどあったため、翌日の首相との会見をこの時の怪我のために欠席している。新宿ではビルの瓦礫の横で加藤勘十、シズエ夫妻らが演説。二人は著者の友人だそうだ。また、造船所での野坂参三の演説も傍聴している。当然、公職追放候補の鳩山一郎の演説も聴いている。

p166
総選挙当日、投票所を視察。整然と投票が行われていることに、初めて見る米国人記者は感慨深げだが、筆者は戦前にも何度か総選挙を見ているので驚くに値しないという。立会人は戦前から立会人をしており、インタビューすると、立会人の感想は、「違いといえば婦人が投票しているという点だけだ」という。

p178
筆者は病床の石原莞爾を見舞う。筆者は石原に非常に興味を持っていた。優秀な指導者で、いずれ政界に復帰すると確信していたようだが、歴史はそうならなかった。
東京裁判を傍聴。例の大川周明が東条の頭を紙筒で叩いた件を目撃している。大川に会って話しも聞いているが、大川の行動は果たして梅毒のためだったのか、芝居だったのか、結局は分からない。

p206 総選挙後の国会で、 山口シヅエにインタビューしている。野坂参三よりも多くの票を獲得した。週5日の婦人労働と幼児への牛乳配給のためにたたかう、と述べた。美人でキビキビしていると、著者の評。
国会で尾崎行雄が演説したが、金つんぼの尾崎は、延々と続く演説にしびれを切らせた議員のヤジはまったく聞こえなかったようだ。

p216 マッカーサーの鶴の一声で、デモは全て中止に。

6月 通訳の松方ハル(ライシャワー夫人)と軽井沢へ家具の買い出し。そこで来栖三郎と彼の二人の娘にも会っている。

p247 1946年7月19日 広島
役所や病院を取材し、医師から生々しい被曝者の様子を知ることとなる。
被曝当時妊娠していた女性に会う。母親は火傷の痕が酷かったが、子供は正常に見えた。市街にいて無事だった12歳の少年に「アメリカ人をどう思う?」と聞くと、「・・その男の子は友達を見廻し石ころの山を眺め、それからわたしたちをみた。十二のこどもとしては大いに考えたにちがいなかった。「アメリカ人はいい。とても親切だ。」」

p292 茨城県磯原村
4人の村の代表と農業改革について話し合った。4人は米国の農業の現状について次々と質問し、夜中の2時過ぎまで続いた。著者がその熱心さに心を打たれた様子は、日本の農民に対する愛情のようなものを感じる。

井上日召 橘孝三郎 大川周明 三代陰謀家と呼び、水戸に隠棲していた橘孝三郎に面会する。橘のところへ行く途中、パンクしたジープのためにポンプを貸してくれたのは、血盟団事件で団琢磨を射殺した菱沼五郎だった。

p300 「私は考えた。世界中のどこにいったい、一人の外国人がパンクしたタイヤをダイナマイト製造犯人になおしてもらい、殺人犯所有のポンプを借りて空気を入れ、それをさらに、もう一人の刺客に案内されて政治テロの巨頭との会見に赴くことができるような国があろうか。日本はまったく幻想的な国だ。」

p310 新聞各社と放送局のストライキは、GHQの命令で中止されてしまう。新聞特派員の著者は本国に送る記事の冒頭「国会が公然と民主主義のレッテルをはられた新憲法を通過せしめた二時間後、日本の警察は罷業中の放送局員のデモを無残にも蹴散らした・・」と書いた。その後のゼネストも中止されたのは,私(阿部)でも知っていた。

p334 マッカーサー元帥は天皇と三度会見した。最初の会見では、元帥は「厳然と形式的な態度に終始した。」(有名なあの写真からもよく分かる)
「次の会見の際、元帥は初めて陛下と呼びかけた。」
マッカーサーの心情の変化はどこにあったのか。

占領軍内部での改革派と軍備派の確執、政策の不統一があったことがよく分かる。
朝鮮戦争前の、米国の極東での政策は、結局失敗だったと著者は見ている。日記はここまで。

なんちゃって金継ぎ2015年12月20日

なんちゃって金継ぎ
横幅が20cmある食篭の蓋。家内のお茶の先生が落としてしまい,斜めに真っ二つに。
私の「なんちゃって金継ぎ」のことを家内が話したら,先生はそれでも良いとのことでくっつけてみました。
まずアロンアルファで接着し,はみ出た樹脂を掻き取る。
わずかに釉薬が欠けてしまった部分をプラリペアで埋めてから,平にヤスリで削り落とした。
その上に前回同様,プラモデルの「金色」を傷よりも大きめに塗る。で,出来上がり。
よく見たら,まだ少し凹みがあったので,この写真の後に凹みを埋めて塗り直し。
割れた線に沿って金を塗るかどうかは,先生に判断してもらうことにした。クラック線の幅は20〜30μm程度なので,目の悪い人には見えないかも・・・(^_^;)

300番手のドレスシャツが存在するとは・・2015年12月22日

TVで「オトナの社会科見学」を見ていたら「メーカーズシャツ鎌倉」を取り上げていた。
そこでは,ニューヨークで売り出したという300番手のシャツを紹介していた。二日で完売したという。

300番手!?
以前,海島綿について調べた時,「1792年トバゴ島のコロニーから、史上最良の綿花がロンドンに持込まれ、278番手の綿糸が紡出されて、1lb20ギニーというとてつもない高値で売られた話は、西印度諸島海島綿の高品質を称えるエピソードとして有名である。」ということだった。
http://www.asahi-net.or.jp/~fv9h-ab/kamakura/botanical-essay1.html#Anchor1425616

18世紀終わりとはいえ,278番手の極細糸を紡いだことは驚異的だ。海島綿のシャツは丸善で求めたものをしばらく愛用していたけれど,今はもう扱っていないようだ。現在売られている海島綿のドレスシャツの番手は140番だ。ブルックス・ブラザーズの海島綿シャツは確か200番手だった。
丸善が海島綿のドレスシャツを扱わなくなってからは,140番双糸(二本撚り)のシャツを愛用していたが,鎌倉シャツの300番手シャツは4本撚りだそうだ。これほどの細さなら,さもありなん。
https://www.shirt.co.jp/contents/xinjang_travel/#03
http://www.shirt.co.jp/300club/300club1.php

この糸は新疆のものだそうで,海島綿を超えている。驚きだ。

生ハムの仕込み2015年12月28日

生ハムの仕込み
1年前に仕込んだ生ハムは,この年末年始に消費してしまう予定なので,新たに1kgの豚ロース肉を,生ハム用に塩漬け。
3%の塩で二日間血抜きしたあと,肉重量の7%の岩塩をミキサーで砕いてまぶした。
10日後にドリップを捨てて,脱水シートにくるむ予定。途中何度もシートを取り替えるので,水分は35%以上も抜ける。
一年おくと,かなり熟成して,パルマの生ハムに負けない(多少負けるけど・・)くらいに美味しくなる。
食べるのは来年の年末年始。さて,どうなりますか。