ビールのつまみ2018年05月07日

つまみ
自分で言うのもなんだけど、自家製の燻製では、このベビーホタテとチータラが双璧を成すなぁ。実に美味い。

ウィンドサーフィン世界大会2018年05月11日

ウィンドサーフィン世界大会
天気が良いので、家内と津久井浜まで京急で行って、ウィンドサーフィン世界大会を冷やかしに。風が弱く、中々始まらなかったので、焼きそばを食べて、それでも始まらないので昼過ぎに諦めて歩いて帰った。
第1ヒートだけ少し見ていたけど、風が無くなり中止。風が弱いとフィンの代わりにハイドロフォイルという水中翼を付けて、浮きながら走るというか、飛ぶらしい。
6ノット位の弱い風でも浮くというので大したものだ。
*車に乗らないのなら、売店が沢山出ているので、ビール片手におつまみ食べてのんびりというのも有りだろう。
*テイカカズラが咲き始めたようだ。(6300歩)

JAMSTEC の施設公開2018年05月12日

JAMSTEC の施設公開
家内、娘、孫と追浜のJAMSTEC の施設公開へ。
人が多いので驚き。人々の関心の高さがうかがえる。
「しんかい6500」の母船となる「よこすか」を見学。
深海調査艇、観測ブイや掘削機、ラジオゾンデ、レアメタルの分析にエキシマレーザや、フェムト秒のチタン・サファイアレーザ が使われていた。高いよそれ。6千万円とかするらしい。フェムト秒にする事で、金属が溶解する前に分析するためだとか。
米国製の漁業用の浮き玉(ガラス製)を加工した耐圧容器に唖然とした。有り物を使う事で安価で高性能なのだそうだ。日本の観測装置にもそう言う発想が欲しいと、説明員と肯き合う。
「ちきゅう」で掘削の担当者にドリルの話を色々聞けた。超硬でも人工ダイヤでも、値段はさほど変わらないと。使い捨てでも600万はするという。
*近海の資源については、全部発表出来ない物もあると担当者。まぁ、そうだろうなぁ。

鎌倉自主探 5月13日(日) 曇2018年05月13日

ツマグロオオヨコバイ
鎌倉自主探 5月13日(日) 曇 参加者24名
源氏山探鳥会は初めてという2家族、小学生のお嬢さんが3名。3人共、鳥は勿論だけど、虫も植物も大好きなようだ。
御成通りの店先にツバメの巣。最近は壁の塗料を塗り替えると、泥が付きにくくなるらしく、壁以外の突起物に作ることが多くなっているように思える。

佐助稲荷では、キビタキの声が間近に聞こえ、大勢で姿を探したが見つからなかった。

大仏ハイキングコースを歩いている時にホトトギスがすぐそばで鳴いた。飛び去る姿も一瞬見ることができた。以前もここではメスを巡って2羽のオスが空中戦を繰り広げたことを思い出す。
ここでは先ほど姿が見つからなかったキビタキが、一瞬ではあったけど双眼鏡に入った。近くで鳴いていたので目を凝らしていると、枝の中に動くもの。双眼鏡を向けると、真っ黒い尾と、黄色い脇腹が見えた瞬間、飛び去ってしまった。

参加者の1人が「コウガイビル」を見つけたので、皆で見てもらう。「笄:こうがい」の画像もiPadで説明。
ツマグロオオヨコバイの写真を撮っていたら、小学生の女の子が「あ、バナナムシ!」と。小学生の間ではバナナムシで通るらしい。(^_^;)
雨が降りそうだったので、早めに切り上げた。

鳥合せ
カワウ3、アオサギ、トビ、コジュケイ、キジバト、ホトトギス2、アオゲラ、コゲラ、ツバメ、ハクセキレイ、ヒヨドリ、イソヒヨドリ、ヤブサメ、ウグイス、センダイムシクイs、キビタキ2、ヤマガラ、シジュウカラ、メジロ、ホオジロ、カワラヒワ、スズメ、ムクドリ、ハシボソガラス、ハシブトガラス、番外ドバト、ガビチョウ 25種+2
*Hリーダの解説で、托卵する鳥は、体温調節が下手なので、他の鳥に卵を抱かせるように発達したのではないかという樋口先生の説を紹介していた。参加者からは、ヒヨドリがホトトギスを追いかけたという観察報告があった。

散歩の会「築地・浅草散歩」2018年05月17日

ドジョウ鍋
散歩の会「築地・浅草散歩」21750歩
5月16日(水) 晴 参加者11名。
今回は私が発案・引率。
日比谷線築地駅10時集合→聖路加病院大聖堂→築地場外市場→浜離宮→水上バスで浅草→「駒形どぜう」で昼食→浅草散策→待乳山聖天を見て解散。
水曜日の場外市場は定休日の店が結構あり、テリー伊藤兄の卵焼き屋も休みだった。平日なのに外国人観光客がかなり多く、ちょっと前とはえらい違い。
水上バスは川風に吹かれて快適。
ドジョウ鍋も好評。飲みすぎてダウンしてしまった2名と付き添い1名が抜けて、「駒形どぜう」で合流した幼馴染の大親友C君の案内で、仲見世以外のちょっとディープな浅草界隈を散策。見番は今まで行ったことがなかったかな? 三社祭を明日からに控えていてお祭り気分は高まっている。
解散後、C君と、今回時間がなくて割愛した「神谷バー」で一杯。私は大ジョッキ、C君は中ジョッキでご苦労さん会。串カツとモツ煮込みをシェアして大満足。
もう一軒とC君お薦めのハイボールが美味いという店は休みで残念。小腹も空いて来たので、C君の勧めで、永井荷風が贔屓にしたという蕎麦屋「尾張屋」へ。
「蕎麦がき」と、メニューにない「天ぬき」をシェアして当てに、冷酒を2合。
気持ちよく酔って解散。持つべきものは友人。
*C君の忠告でドジョウ鍋は「丸」と「裂き」を二人前を四名でシェアしてちょうど良かった。なぜなら、小さいながら底の浅い皿鍋2枚が一人前。もし人数分頼んでしまうと、「えぇ?まだ出るの!」という状態になる。我々のテーブル4名は他に「鯉の洗い」と「味噌田楽」などをシェア。こんなもんで良い。

読み終えた本 遠い崖 第4巻 慶喜登場2018年05月30日

読み終えた本
遠い崖 第4巻 慶喜登場
ーアーネスト・サトウ日記抄ー 萩原延壽(1999年)

パークスは日本の内政には不干渉(英仏蘭米ともに)の立場を取ったが、第二次長州戦争では2隻あったフランスの軍艦は、本国へ引き上げてしまったので、フランスは事実上幕府を支援できなかった。

横浜の大火では、サトウ等の住まいが焼け、特にサトウは多くの蔵書や原稿を失った。本国への報告にある損害リストには拳銃(コルト)が入っている。

1866年、サトウは長崎で、シーボルト(父)が所有していた山荘を訪れている。その後、通訳官シーボルトの姉に会っている。姉はすなわち、父シーボルトと楠本滝との間に生まれた「伊禰」である。父シーボルトはこの2ヶ月前に亡くなっている。

慶喜が新将軍となるに当たり、パークス等外国公使と四人の外国奉行が協議したが、この時、将軍の資格と地位がはっきりとし、それまでの将軍をMajesty と呼ぶ事は相応しくないとし、天皇にのみ相応しいと考えるようになった。将軍に対してはHighnessが適当であるとした。実際には慶喜と四カ国公使が謁見した際、パークスはHighnessの呼称に固執したが、他の3カ国はMajestyと呼んだ。

p174
サトウの「一外交官の見た明治維新」は、昭和35年まで禁書扱いだった。孝明天皇毒殺説の為。

p210
将軍慶喜と各国大使との謁見に同行したサトウは、大阪の街を散策、三井呉服店(三越の前身)の前を通った時「店は数え切れないほどの行灯の光で照らし出され、実に美しい眺めであった。」と述べている。

p228
サトウと二等書記官ミットフォードは、小松帯刀らと会談した際、小松から英国の介入を望まれたが、政治的中立を保つという方針から、パークスははっきりとこれを拒絶している。

p277
大阪での徳川慶喜との会見を前に、パークスはロッシュが大阪と江戸の開市を、外国人が住むには危険が多いという理由で除外しようとしている点を問題にしている。パークスは外相への報告で「武器を携帯した始末におえない階級がいるところでは、常にある種の危険がつきまとうであろうが、この階級はたんに江戸と大阪にいるばかりでなく、日本の至る所にいるのである。」と述べている。だが、大阪は商人が多いので比較的安全と言っている。また、フランスは武士階級をかなり恐れていた事がうかがえる。
この当時、日本が「支那」のようには扱えない事が英国にはよく分かっていたのだろう。事実、そうならなかった。

サトウは、比較的暇な時期に、パークス等を引き連れて、船で熱海に行き温泉を堪能し、箱根の関所を見て、小田原を旅している。当時の旅籠の様子や、オールコックが残した石碑(得意の漢字で彫られている)の描写が興味深い。オールコックの愛犬が間欠泉の熱湯を浴びて死んでしまい、その死を悼んだ石碑は今でもあるという。

サトウは箱根旅行の後、泉岳寺近くの寺に住む事となる。公使館はこの寺の下にあった。この頃、日記に英国留学生の件で「安房」として登場するのが軍艦奉行、勝安房守だ。この頃から勝とは親密な関係となる。
サトウはワーグマンや従者とともに日本食を食べ、湊屋とい女郎屋に扮装して出かけている。サトウは人々が自分達のことを、若い頃にイギリスに行った事のある薩摩藩士で、日本人と区別が付かなくなったと噂していると書いている。ワーグマンも、サトウ同様、日本語が堪能だった事だろう。

p350〜
1867年4月末から5月にかけて、大阪城において将軍慶喜と外国公使謁見が行われた。この時、英国公使パークスは、フランス風の豪華な晩餐会が終わった後の別室で、壁に掛かった「三十六歌仙」の絵の説明を、サトウから受けた。サトウは詳しく説明し、それをみて感銘を受けた慶喜はそのなかの「伊勢」をパークスに贈った。パークスが揃いのものからなので辞退するが、慶喜は、空白ができたとしても、その一枚が今英国公使の手に渡っていることは私の喜びである、と述べて、パークスを感激させた。
このことは、新村出の養父、新村猛雄が当時、小姓頭取として慶喜に仕えていたためこの場に臨席していたので孫の出の知ることとなった。同席していた幕府側の人間も、絵を次々にパークスに説明したサトウに驚嘆したという。(横須賀製鉄所ドック起工(1871年竣工)はこの年の4月7日だった。)

*なかなか読み終えなかったが、特に最後のあたりは当時の手紙が多数引用されており、候文を読むのは大変で、ベッドで読んでいるとすぐ眠くなるために遅々として進まなかった。(^_^;)