遠い崖 第7巻 江戸開城2019年01月23日

読み終えた本(読了の方がかっこいいけど・・・)
遠い崖 第7巻 江戸開城
ーアーネスト・サトウ日記抄ー 萩原延壽(2000年)

東征軍が江戸に迫る中、横浜には部隊からはぐれた武装した新政府軍兵士が散見される様になった。横浜の治安を維持するため、各国は要所に警備兵を配置し、神奈川奉行と連絡を取り合った。この措置は新政府軍が引き継ぐまで6週間続けられた。

サトウは、江戸探索の滞在1週間、この間に行われた江戸開城の、西郷と勝の密談を知らされなかった。勝とは親しかったが、勝が徳川方の代表である事はこの時点で知らなかったらしい。わずかの期間に勝が大抜擢されていたのを知らなかった様だ。同様に西郷が江戸に、しかもサトウの住まいのすぐ近くの高輪・薩摩藩邸にいた事も知らなかった。

西郷は、江戸総攻撃の中止を全軍に指示するには、パークスから圧力があったかのように、巧みに先鋒隊の板垣参謀に言い含めたフシがある。西郷に政治家としての強かさをみる。

慶喜蟄居の間、勝も、京都から戻った西郷も、横浜のパークスを訪ねている。ドラマではあまり登場しないパークスやサトウだが、維新での重要な役割を負っている。
この時、パークスからも、前政権の責任者(慶喜)を厳罰に処するのは、西欧の公法から見ても新政権の評判を落とすと言われたようだ。
だが筆者は、「パークスの圧力」は事実上存在せず、全て西郷に一存であった、という立場だ。たまたまパークスと西郷の考え方が一緒であって、パークスは西郷に先を越されたという事か。

戊辰戦争が北方に広がる頃、サトウは日記を中断しているが、筆者は「海舟日記」で同期間のサトウの動向を確認している。三度、勝を訪れていた。(筆者が参照している文献が全てデジタル化されていたら、ずいぶん楽だっとろうと思うが、そうはいかない)

彰義隊討伐で負傷した兵士の一部は横浜に送られて、ウィリスが治療に当たった。ウィリスの感想が興味深い。
「日本側の医師も、銃砲による負傷の治療に役立つ副木(そえぎ)などの器具の使用について、既に多くのことを身に付けている。日本側の外科医が包帯や副木などの使用法を教えるシドル氏から学びとることのすばやさ、我々が様々な種類の手術を行う際に彼らが示す強い好奇心、これらを見ていると、ヨーロッパ式の治療技術が次第に日本全土に普及し、現在日本のあらゆる階級の間で広く行われている中国伝来の、あの複雑でしばしば有害な医術にやがて取って変わるのではないかという希望を抱かせる。」

サトウはリードオルガン(ハルモニウム)を弾く趣味があった。本国に楽譜を注文している。

フランス公使ロッシュは本国召還後、全権大使のまま赴任地を与えられず、30年後に亡くなった。その間、アフリカ任地の回想録を書いたが、日本については何も書き残していない。

1867年のパリ万博で、徳川昭武に同行した勘定奉行、栗本鋤雲のフランス評、米英に比し、政府があらゆる産業に介入して、自由な商業活動が出来ない、と述べている。今般、ルノー・日産騒動のフランス政府の態度を見ていると、この時代から少しも変わっていないようだ。
政情の激変を伝える日本からの各種の書状が、パリの栗本の元に次々に届くが、この時代の欧州の郵便制度が、いかに確立されていたか、また電信を使って、いかにその時間を短縮していたかが分かる。

負傷兵治療の為、要請されて会津落城直後の若松に入った元公使館付医師ウィリス(この時江戸副領事)の見聞に拠れば、そこで目にしたのは容保敗北後の会津農民の離反だった。重税に苦しんだ農民は新政府を支持し、一揆が起きた。

ウィリスの報酬を求めない献身的な治療は、新政府の厚い信頼を得た。それにより政府より請われて、東大医学部の前身となる医学校の教授として1年間は、公使館より貸与の形を取って実現した。

明治元年の11月6日、天皇の誕生日を祝って、神奈川沖に諸外国の艦船が集結し、神奈川の砲台があげた祝砲に呼応して艦船から祝砲をあげた。その様子をサトウや招待された右大臣三条や、パークス襲撃事件で暴漢を切った後藤象二郎らにサーベルを贈るなどされた一行が、サトウの屋敷から眺めていた。その時、会津鶴ヶ城は外郭が崩れ、落城寸前という状態だった。

吉原での豪遊の翌日の描写が面白い。
「夜、私の家で大宴会をした。明神前から芸者3人、コナツ、ダイキチ、コチョウと、幇間2人、サノスケ、カザンを呼んだ。真夜中までドンチャン騒ぎをした。幇間は余興に、外国人と護衛が川崎の渡し場に差し掛かったところを演じて見せた。オバラや数人の私を護衛する別手組も、進んで余興を買って出たが、これは階段を上ったすぐの部屋で、宴会を覗くことを許してあった家のものを、大いに喜ばせた。」(私=サトウ)
数日前に会津落城。

函館の榎本武揚に、各国の公使館員が次々に訪れ、それぞれの思惑が交錯する。榎本にはフランスの軍事顧問が居た為もあったからか、国際法には精通しており、強かだ。開陽丸が江差で座礁する直前の事なので、蝦夷地の独立に賭ける榎本の勢いが感じられる。

*この時代の歴史を、海外の公使館員の動きから見ると、移動・輸送手段としての(洋式)艦船の役割は非常に重要だ。どこへ行くにも船だ。速くて安全という事だろう。船の役割を見直した。