読み返した本「さむらいウィリアム-三浦按針の生きた時代」2015年04月02日

さむらいウィリアム
読み返した本「さむらいウィリアム-三浦按針の生きた時代」
ジャイルズ ミルトン (著) 原書房 (2005/10)

2005年に読んだ本なので,もうほとんど内容を忘れている。(^_^;)

フランシスコ会のある修道士は、浦賀で,アダムズと宗教論争をしたのち,彼の前で、奇跡を起こすと言って海を歩いて見せようとした。論争の翌日,十字架を引きずって海に入り,修道士は十字架を浮きにしてそれに立ち,奇跡に見せるつもりだったのだろうが,その企ては見事に失敗し,溺れそうになったところを助けられた。修道士は事前に奇跡を行うことを浦賀でふれて回り,大勢の浦賀の住民の前で行われたので笑い者になったという。アダムズは冷ややかにそれを見ていたという。(浦賀にそのような記録が残っていたら見たいと思う:阿部)

ジリンガムに残されたアダムズ夫人は,比較的裕福だったと「日本に来た最初のイギリス人」にはあったが,この本では,イギリス東インド会社に,窮状を訴えて,当然受け取るべき金額を要求したとある。それもなかなかしたたかな態度で。

家康から帰国の許可を得たアダムズは,ジョン・セーリス(イギリス東インド会社の貿易船「クローブ号」の指揮官。通商を求めるイングランド国王ジェームズ1世の国書を持って1613年に平戸に到着。徳川家康より貿易を許可する朱印状を得て帰国した。:Wikipedia)と帰国できるのに,一緒に帰国しなかった理由として,セーリスとは全く馬が合わないこと(セーリスはアダムズが同国人を野蛮で粗野だと嫌っていたこともある)、旗本としての地位と,財産が領地以外になかったからと考えられる。この時セーリスと帰っても,故郷に錦を飾るという訳にはいかないと考えたのだろう。

アダムズは旗本として,姿形,所作までも全く日本のサムライになってしまい,同国人の船乗りや,商館員達の方が,日本人よりもよほど粗野で野蛮だと思っていた。船乗りや宣教師たちも,日本人のように風呂に毎日入るわけではないので,非常に臭かったと思われる。特にフランシスコ会の修道士は,まったく風呂に入らず,着るものも洗わず,裸足で歩き回り,托鉢を生活の糧とするのが教義なので,それは日本では「乞食」と思われた。そんな「外国人」をアダムズが嫌ったのは同然かもしれない。

当時のイエズス会宣教師などがヴァチカンに送った書状,ルイス・フロイスやヴァリニャーノ等の見聞を読んでみると,たとえば,江戸は驚くほどきれいで,道にゴミひとつ落ちていない,まるで人が通らないかのようだ,とか,人々は礼儀正しく清潔で,武士や大名等の華麗な衣装や,洗練された作法に驚いている。また江戸城の堅牢さと規模に驚嘆している。
これはまさに「クール・ジャパン」そのものだなぁと思う。