遠い崖 第12巻 賜暇2020年05月10日

読み終えた本 遠い崖 第12巻 賜暇
明治8年、サトウは賜暇を申請し、帰国する。
日本語の口語、文語の辞典を出版するため、14ヶ月に延長した。
勉強熱心なサトウは、イタリア語の教師を付けて習得し、スペイン語も学んでいる。ロンドン滞在中は音楽好きにために、何度もコンサートに行っている。
又、フランス経由でスイスを旅行している。
明治9年、コンサートには何度も出かけており、クララ・シューマンのピアノ演奏も聴いている。
明治9年、長い賜暇の終わり、パリ滞在中のサトウは、横須賀造船所にいたヴェルニーと会っている。その時のヴェルニーの勤務地はリヨンだった。ヴェルニーは日本勤務を後悔していないということだった。
大使館付医師から、鹿児島の医学校の教師となったウィリアム・ウィリスの手紙を紹介している。この中でウィリスは明治9年の廃刀令に遭遇し、一般の日本人が刀を捨てるのを目撃した驚きを述べている。
年が明け、明治10年、熊本、福岡、山口で氏族による動乱が勃発し、やがて西南戦争に遭遇することになる。
鹿児島に到着したサトウはしばし市内を散策し、留守だったウィリスが帰宅すると、ウィリス宅に逗留する事になる。その間に、西郷が決起した事が次第に詳しく伝わる。幕末から信頼し、親交を深めてきた西郷の決起を聞いたサトウの心中はいかばかりだったかよ。

遠い崖 第11巻 北京交渉2020年04月12日

アーネスト・サトウ
読み終えた本、
遠い崖 第11巻 北京交渉
西南戦争勃発前、サトウは勝(参議兼海軍卿)と良く会い、意見交換しており、親しく交際していた。
1874年(明治7)の台湾原住民による日本漁民殺害を理由として、日本が台湾に派兵した事件について書かれている。大久保が北京に出向き、清国から償金を得て和約。この時、イギリスが清国との仲立ちとなり、交渉のまとめ役となった。征台の役。台湾征討。
サトウは殆ど登場せず、交渉の経緯を詳しく述べている。
あまりおもしくないのでメモ無し。

遠い崖 第10巻 大分裂2020年03月05日

読み終えた本
遠い崖 第10巻 大分裂
ーアーネスト・サトウ日記抄ー 萩原延壽(2000年)
岩倉使節団の帰国が遅れ、留守政府に難題が持ち上がる。
その1つが、「マリア・ルス号事件」で、日本の外交手腕、司法制度が世界に問われたものだった。
マリア‐ルース‐ごう‐じけん【―号事件】
苦力クーリー輸送をめぐる外交事件。1872年(明治5)、横浜に寄港したペルー船マリア‐ルース号(Maria Luz)の中国人苦力輸送に対し、日本政府は、これを奴隷貿易であるとして苦力の解放を命じ、ペルー政府と紛争になるが、ロシア皇帝の仲裁裁判で日本側が勝利。これがきっかけで同年、芸娼妓解放令が出される。
島津久光は、不平士族250名に束髪佩刀(そくはつはいとう)、髷を結って大小を帯びさせ、東京へ圧力を掛けにやって来たが、勝海舟に説得されたらしく、兵は引き揚げた。西郷も近衛兵で威圧し、もしかすると、警官(当時はポリスと呼んでいた)が密着警備していたのも、西郷の差し金では?と筆者。
明治6年の政変は、征韓派の副島と、反征韓派の岩倉との対立に見えると筆者。征韓派のアメリカ公使デ・ロングも任期を終え帰国している。西郷に関して筆者は、パークスの報告に西郷が登場しないことや、サトウが明治4年に西郷と直接話した記録から、西郷は既に自分の役目を終えたと思っていたのでは、と推察している。
西郷は理想主義者で夢想家、大久保は実務者なので、結局は互いに相容れないところが最後に残ったのだろう。 p190

エポレツト2020年01月24日

エポレツト
ニュースアプリで「これの名前は?」という記事、「軍服などの肩にあって飾りの付いた帯状にものは?」、知ってたよエポーレット、肩章という。
確か鴎外の「舞姫」に出て来たので、青空文庫の「舞姫」をダウンロードして検索しようとしたら、閲覧画面のメニューに検索というのがない。
そんな馬鹿なとググってみると、青空文庫全体の語句検索サイトがある。
「エポレット」、「エポーレット」のどちらも検索結果ゼロ。
あれ?記憶違いかと、日本国語大辞典で「エポレット」を検索すると、
ーーー
エポレット
〘名〙 (フランスépaulette)
①女性の洋服の肩飾り。
②男性の礼装用軍服などの肩の部分の飾り。
*舞姫(1890)〈森鴎外〉
「幾星の勲章、幾枝の『エポレット』が映射する光」
ーーー
有るじゃん。変なので「舞姫」の出てきそうな箇所を探すとあった!
「・・・幾星の勲章、幾枝の「エポレツト」が映射する光、・・・」
あ、「エポレツト」だ。「ッ 」じゃなくて「ツ」だ。
「エポレツト」で検索すると、「舞姫」が出てくる。
するって〜と何か? 青空文庫に収録されている全作品で「エポレット」という語句を使った作家は、森鴎外以外にいないという事か!驚いた。

レオナルド・ダ・ヴィンチ2019年10月08日

レオナルド・ダ・ヴィンチ
レオナルド・ダ・ヴィンチ (上)
ウォルター・アイザックソン著 文藝春秋社 2019.3

著者は、スティーブ・ジョブズの伝記を書いた人で、冒頭部分を読んだだけでも、今までのレオナルドに関する伝記としては最も詳しいのではないかと思わせる。
例えば、最初の注釈、
ーーー
レオナルド・ダ・ヴィンチの呼称として、単に『ヴィンチ村出身」を意味するダ・ヴィンチの部分が誤って名字のように使われることがある。ただ、この用法は一部のうるさ型が主張するほどとんでもない誤りではない。当時のイタリアでは世襲の名字の使用や登録が一般化し、その多くは「ジェノベーゼ」や「ディカプリオ」など一族の出身地に由来していた。レオナルドも父親のピエロも、名前の最後によく「ダ・ヴィンチ」と書き添えていた。レオナルドがミラノに移った後、友人の宮廷詩人ベルナルド・ベリンチョーニは「フィレンツェ人のレオナルド・ヴィンチ」と記している。
ーーー
読む暇が、と言うより、観察でぐったりした後読む気にならないので、また後日借りることにする。

潮候推算機2019年08月15日

潮候推算機
クロード・シャノンの伝記を読んでいて、謎が一つ解けました。

(長文注意)
------ 以前書いた話。ここから、
女子勤労挺身隊と聞いて、必ず思い出すことがあります。
何度も書いたので、またかとお思いの方もおられるでしょうが、2000.6.23-25、横須賀新港から新島へのショートクルーズで、商船三井客船(昔の大阪商船)のふじ丸(総トン数23,340トン)に乗った時の話です。
女子挺身隊は勤労動員であり、強制ではあったかもしれませんが、当時日本人だった韓国の婦人も、同じように動員されたのであって、決して奴隷労働ではなかったことは、誰もが知っている事実です。
------
二日目の夜は船長主催のカクテルパーティーがありました。相席になったのは、年輩の三人のご婦人。
私の隣りの方は、リーダー格の、お年は召していらっしゃるけれど、とても上品でおきれいな方でした。
席に案内されてご挨拶したとき、このご婦人は家内と私を見て「失礼ですが新婚でいらっしゃいますか?」と聞かれました。これには驚きましたが、どこが新婚に見えたのでしょうね。結婚して27年目、子供達は皆成人したと話しました。戦後生まれですと言ったので、自分たちの年代のことはわからないだろうと思ったかもしれません。
「お仲間でいらっしゃいますか?」と他の二人を見て言うと、「そうなんです。女子挺身隊でしたの」とのこと。「そうですか、勤労動員されたんですね。」とお答えすると、私が女子挺身隊というのを知っているのが不思議という感じでした。
ご婦人は「水路部ということろで働きました。その時以来のおつきあいですの。だんだん空襲が激しくなり、イギリスのケルビン社の大事な機械を、成田さんの本殿に疎開させたのですよ。日本に二台しかない貴重なものでしたから」
私にはちょっと面白い話だったので興味を持ちました。 ご婦人にどんなお仕事でしたか?とうかがうと、「潮位を計る仕事でしたの。潮位をケルビン社の測定器が記録して、そのコサインカーブを合成して計算するのです。」そしていつ潮位がどうなるというのを予測する、その計算のためだとおっしゃいました。
私が「そうそう、潮位を計ったり、暦を発表するのも水路部の仕事ですね。潮の満ち干は、大潮、小潮とか月と太陽の動きによるので、天体観測が大切なんですよね。水路部は昔は海軍でしたが、今は海上保安庁ですね。」というと、「良くご存じですね!」と驚かれました。
私は、暦を編纂するのはずっと東京天文台だと思っていたのですが、水路部の仕事なのだと最近知ったのですとお話すると、婦人は「戦争が激しくなり、水路部はイギリスから緯度・経度の情報が入らなくなり、モナコからは潮位のデータが入らなくなりで、日本で独自に計算しなければならなかったのです。鈴木敬信先生がごいっしょでした。」とおっしゃるので、「鈴木敬信さんですか、ご本を持っていますよ、天文学通論を書かれましたね」と言うと、再びたいへん驚いて「鈴木先生をご存じなんですって」とお友達に向かって話しました。
「ご存じ」というほどではないのでが、私も天文が好きで、子供の頃、野尻抱影とか、鈴木先生の書かれたものを読んだことがあります、と申し上げました。
天文計算のために、天文学者が一緒に働いていたというわけです。
ご婦人はとにかく驚いたという表情で、「私たちのやったことをお話ししても、今まで誰もわかってくれる人はいなかったんですよ」とおっしゃり、嬉々としてお話をしてくださいました。
私もこの上品な老婦人の口からケルビン社だの、コサインカーブの合成だのという言葉が出るとは思ってもいませんでしたので、大変楽しい会話が続きました。
話しにでた、ケルビンは、良くご存じのジュール・トムソン効果のW.トムソンのことです。
辞典にはケルビンは自分の考案した計測器を販売し、巨万の富を得たとあります。日本に二台しかなかった貴重な機械とは、お話の内容から、記録式の潮位計と、潮流も計れたそうなので、ケルビン卿の発明した精密なダブルブリッジを備えた装置だったのかもしれません。
---- ここまで

ところが、全然違っていた。ケルヴィン卿の計算機は潮候推算機と言い、アナログコンピュータの一種で15個の歯車を持つ大きな機械式計算機だった。
http://museum.ipsj.or.jp/heritage/suisanki.html

https://www.kahaku.go.jp/exhibitions/vm/past_parmanent/rikou/Field_1/Detail_102.html
「本機の下部には外部動力により駆動するシャフトが横方向に通っており、大きさの異なる15個の歯車が付いています。このそれぞれの歯車から振幅と位相の異なる動きを上部にある15個の滑車に細い棒を通して伝えます。15個の滑車はそれぞれの速さ、大きさで上下に単振動を行います。この滑車に左端を固定した糸を通すと、糸の右端は各滑車の動きを足し合わせた動きをします。そこで一定の速度で回転するドラムに記録紙を巻き付け、糸の右端にペンを付ければ、合成した潮位曲線を得ることができます。」
*昔の測定器というか、計算機というか、まぁ、なんと美しいことでしょう!

英国公使館2019年05月29日

英国公使館
「遠い崖」の第9巻を読んでいる途中、英国公使館を新たに東京のどこに建てるかで、おそらく英国側が江戸城近くを希望したものが認められたのでは、と思うが、麹町に決まった。今の英国大使館の場所だ。まだ大名、旗本が住んでいたが、三千六百両近くを借地料と立退料に支払うという仮契約になっていた。
どこの大使館よりも良い場所なのは、新政府への貢献度の表れであろう。
*この地図は、この様な場合の比較に便利。
*読み進めてみると、英国本国からは許可がなかなかおりず、その間に廃藩置県が行われ、土地は東京府の管理下に。借地料なども百五十両に激減した。結局、申請から17年後に着工したという。

伊藤鶴吉2019年04月11日

伊藤鶴吉
イザベラ・バードの「日本奥地紀行」で、バードが雇った通訳「伊藤」の事が気になっていた。読んだ時には調べても分からなかったが、漫画になったもののサンプル版を見ていたら「伊藤鶴吉」とフルネームで登場した。
Wikipediaで検索すると、「相模国三浦郡菊名村(現・神奈川県三浦市)の生まれ。」とある。そうだったのか。バードの評価は散々だったが、旅の終わりでは別れを惜しんだ。
かなりの有名人になり、亡くなった時は新聞に載ったほど。
シドモアの「日本紀行」にも通訳として登場する。
*謎が一つ解けた。

ーーー http://www13.plala.or.jp/r-shirakami/1100.html
イザベラ・バード研究の第一人者である京都大学教授の金坂清則氏のレポートに、伊藤について書かれている部分がある。
「イトーは本名を伊藤鶴吉といい、その後も長く通訳ガイドとして活躍した。逝去に際しては、「通訳の名人」「通弁の元勲」などと称賛された。日本を訪れた著名人が彼の世話になっていた」(「I・バードと山形の旅(下)」山県新聞夕刊 2000年9月6日発行)
ーーー
東洋文庫版の「日本奥地紀行」のあとがきでは「通訳として雇った伊藤」と登場するが、訳者は、「その後の消息は不明」となっていた、と記憶する。
*もう一度、「日本奥地紀行」の、最後に伊藤と別れたところや、訳者のあとがきを読み直してみたが、この本が出た時点では「伊藤」としか書いていないので、「伊藤」が何者だったのかが判明していなかったものと思われる。その後の消息が不明、とは書いていなかった。消息を知りたかったので、自分でそう思っただけだったようだ。

遠い崖 第7巻 江戸開城2019年01月23日

読み終えた本(読了の方がかっこいいけど・・・)
遠い崖 第7巻 江戸開城
ーアーネスト・サトウ日記抄ー 萩原延壽(2000年)

東征軍が江戸に迫る中、横浜には部隊からはぐれた武装した新政府軍兵士が散見される様になった。横浜の治安を維持するため、各国は要所に警備兵を配置し、神奈川奉行と連絡を取り合った。この措置は新政府軍が引き継ぐまで6週間続けられた。

サトウは、江戸探索の滞在1週間、この間に行われた江戸開城の、西郷と勝の密談を知らされなかった。勝とは親しかったが、勝が徳川方の代表である事はこの時点で知らなかったらしい。わずかの期間に勝が大抜擢されていたのを知らなかった様だ。同様に西郷が江戸に、しかもサトウの住まいのすぐ近くの高輪・薩摩藩邸にいた事も知らなかった。

西郷は、江戸総攻撃の中止を全軍に指示するには、パークスから圧力があったかのように、巧みに先鋒隊の板垣参謀に言い含めたフシがある。西郷に政治家としての強かさをみる。

慶喜蟄居の間、勝も、京都から戻った西郷も、横浜のパークスを訪ねている。ドラマではあまり登場しないパークスやサトウだが、維新での重要な役割を負っている。
この時、パークスからも、前政権の責任者(慶喜)を厳罰に処するのは、西欧の公法から見ても新政権の評判を落とすと言われたようだ。
だが筆者は、「パークスの圧力」は事実上存在せず、全て西郷に一存であった、という立場だ。たまたまパークスと西郷の考え方が一緒であって、パークスは西郷に先を越されたという事か。

戊辰戦争が北方に広がる頃、サトウは日記を中断しているが、筆者は「海舟日記」で同期間のサトウの動向を確認している。三度、勝を訪れていた。(筆者が参照している文献が全てデジタル化されていたら、ずいぶん楽だっとろうと思うが、そうはいかない)

彰義隊討伐で負傷した兵士の一部は横浜に送られて、ウィリスが治療に当たった。ウィリスの感想が興味深い。
「日本側の医師も、銃砲による負傷の治療に役立つ副木(そえぎ)などの器具の使用について、既に多くのことを身に付けている。日本側の外科医が包帯や副木などの使用法を教えるシドル氏から学びとることのすばやさ、我々が様々な種類の手術を行う際に彼らが示す強い好奇心、これらを見ていると、ヨーロッパ式の治療技術が次第に日本全土に普及し、現在日本のあらゆる階級の間で広く行われている中国伝来の、あの複雑でしばしば有害な医術にやがて取って変わるのではないかという希望を抱かせる。」

サトウはリードオルガン(ハルモニウム)を弾く趣味があった。本国に楽譜を注文している。

フランス公使ロッシュは本国召還後、全権大使のまま赴任地を与えられず、30年後に亡くなった。その間、アフリカ任地の回想録を書いたが、日本については何も書き残していない。

1867年のパリ万博で、徳川昭武に同行した勘定奉行、栗本鋤雲のフランス評、米英に比し、政府があらゆる産業に介入して、自由な商業活動が出来ない、と述べている。今般、ルノー・日産騒動のフランス政府の態度を見ていると、この時代から少しも変わっていないようだ。
政情の激変を伝える日本からの各種の書状が、パリの栗本の元に次々に届くが、この時代の欧州の郵便制度が、いかに確立されていたか、また電信を使って、いかにその時間を短縮していたかが分かる。

負傷兵治療の為、要請されて会津落城直後の若松に入った元公使館付医師ウィリス(この時江戸副領事)の見聞に拠れば、そこで目にしたのは容保敗北後の会津農民の離反だった。重税に苦しんだ農民は新政府を支持し、一揆が起きた。

ウィリスの報酬を求めない献身的な治療は、新政府の厚い信頼を得た。それにより政府より請われて、東大医学部の前身となる医学校の教授として1年間は、公使館より貸与の形を取って実現した。

明治元年の11月6日、天皇の誕生日を祝って、神奈川沖に諸外国の艦船が集結し、神奈川の砲台があげた祝砲に呼応して艦船から祝砲をあげた。その様子をサトウや招待された右大臣三条や、パークス襲撃事件で暴漢を切った後藤象二郎らにサーベルを贈るなどされた一行が、サトウの屋敷から眺めていた。その時、会津鶴ヶ城は外郭が崩れ、落城寸前という状態だった。

吉原での豪遊の翌日の描写が面白い。
「夜、私の家で大宴会をした。明神前から芸者3人、コナツ、ダイキチ、コチョウと、幇間2人、サノスケ、カザンを呼んだ。真夜中までドンチャン騒ぎをした。幇間は余興に、外国人と護衛が川崎の渡し場に差し掛かったところを演じて見せた。オバラや数人の私を護衛する別手組も、進んで余興を買って出たが、これは階段を上ったすぐの部屋で、宴会を覗くことを許してあった家のものを、大いに喜ばせた。」(私=サトウ)
数日前に会津落城。

函館の榎本武揚に、各国の公使館員が次々に訪れ、それぞれの思惑が交錯する。榎本にはフランスの軍事顧問が居た為もあったからか、国際法には精通しており、強かだ。開陽丸が江差で座礁する直前の事なので、蝦夷地の独立に賭ける榎本の勢いが感じられる。

*この時代の歴史を、海外の公使館員の動きから見ると、移動・輸送手段としての(洋式)艦船の役割は非常に重要だ。どこへ行くにも船だ。速くて安全という事だろう。船の役割を見直した。

2018年12月19日

DESIGN TALK +の再放送で、デザイナーの鈴木康弘が、箸のもとの方が足に見える自身の作品を示し、ロラン・バルトの言葉を引用していた。箸は何を食べたいとしているか示す機能も持っていると。
以前読んだ事がある「表徴の帝国」にある言葉だ。
ーーー
箸は、まずはじめにーーーその形そのものが明らかに語っているところなのだがーーー指示するという機能を持っている。箸は、食べ物を指し、その断片を示し、人差し指と同じ選択の動作をおこなう。食事という日常性のなかに、秩序ではなく、いわば気まぐれと怠惰をもちこむのである。
ーーー
*普段使っているものだと、見えていないこともあるなぁ。
編集する