読み終えた本「もういちど読む 山川 日本近代史」2015年11月10日

もういちど読む 山川 日本近代史
読み終えた本
もういちど読む 山川 日本近代史 鳥海 靖著 山川出版社(2013年)

中立的な立場から近代日本の歴史を冷静に述べているように思います。それは,「はじめに」によく示されています。
近代史をきちんと順序立てて読んだことがないので勉強になりました。また,歴史教科書では触れていない部分も多く書かれています。

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はじめに
 本書は、幕末の黒船来航前後から第二次世界大戦の敗北に至る100年近くの日本の歩みについて、できるだけ国際社会のなかの日本と言う視野に立ちつつ概観し、近代日本の歴史的特色と問題点を探ろうとしたものである。
 歴史の研究や叙述のうえで重要な事は、歴史の内在的理解であろう。歴史学は多くの場合、結末がわかっている事象を事後的に取り上げて、その原因を過去にさかのぼって究明し、その意味を解釈・論評する学問である。それは往々にして結果からの演繹的説明に陥りやすく,時代状況を無視して、今日的価値観により歴史を裁断する傾向を免れない。
 しかし、歴史を内在的にとらえるためには、まず何よりも、その時代に生きた生身の人間たちがどのような価値基準に基づいて、何を考え、何を目標に行動したかを、歴史状況に即して理解することが必要不可欠といえよう。
 このように考えれば、超歴史的な一元的価値基準に基づく、いわゆる「イデオロギー史観」 (例えば戦前の「皇国史観」,戦後の「人民史観」「階級闘争史観」など)は、ともすれば、事実を事実として多角的に歴史を直視する柔軟で広い視野を失わせ、単純な「善玉・悪玉的」歴史理解の弊に陥りかねない。それは、人間の英知の集積としての複雑で魅力に富んだ歴史諸相の様々な理解の可能性を、一つの正しい歴史認識の中に閉じ込めてしまうことになるのである。「歴史には神も悪魔も登場しない」という含蓄深いことわざの意味を、じっくりかみしめる必要があるように思われる。
著者

メモ
p95
帝国議会開設以来10年ほどで立憲政治は定着し、自由民権運動の流れをくむ正統派、明治憲法体制下に大きな地位を占め、日本における政党政治発展の基礎が築かれることになった。
日本の場合は、比較的短期間にそれほど大きな混乱もなく、藩閥勢力と政党勢力(自由民権派)の協力・妥協により、立憲政治が定着した。

p121
(明治期の)高度成長の秘密をどこに求めるかについて、様々な考え方があるが、寺子屋教育の伝統を引き継いだ学校教育の普及、とりわけ国民の読み書き能力の高さ、出身身分の階層に関係なく教育制度を通じて中下層の庶民が国家の指導階層まで上昇し得るようなタテの社会的流動性の高さ、「日本人の勤勉性」、宗教的束縛の欠如、そして、国民の大部分が同一民族からなり、同一言語を持ち、宗教的対立や民族紛争による流血もあまりないと言う状況のもとでの日本社会の同質性の高さなど、江戸時代以来の日本の様々な歴史的前提条件の重要性を考慮することが必要であろう。

p130
明治時代初期には、積極的な西洋文化の摂取や近代的変革の進行に伴って、日本の知識人の間に、日本の歴史や伝統的な文化を軽視する傾向が広まった。それはちょうど第二次世界大戦期の日本で、一時、知識人の間に戦前の日本に対する全面的な否定的評価が流行したのと、よく似た現象であった。
ベルツは、そうした現象を(次のように)観察し、自国の固有の歴史や文化を軽視する様な事では、かえって外国人たちの信頼を得られないだろうと批判している。(「ベルツ日記」 1876年10月25日)

p149
明治12年と明治19年のコレラの大流行では、それぞれ10万人以上の死者を出した。明治後期には港での検疫の強化、医療・衛生設備の改善、衛生思想の普及などによりコレラの死者は激減した。
その反面産業化の進行とともに肺結核による死者はかえって増加した。明治33年には年間7万2千人弱だった肺結核及び結核性疾患による死者は大正元年には11万4千人余りと1.6倍に増えた。若者の死亡原因で最も高い比率を占めるに至った。

p169
大正8年のパリ平和会議で、日本は5大国の一つとして、国際連盟加盟国は、人種差別を撤廃せよとの条項を盛り込もうとしたが、アメリカは人種差別問題は自国内の問題であり内政干渉にあたるとし、イギリスも白豪主義のオーストラリアの強い反対にあって、両国とも日本案には賛成しなかった。

p174
大正11年のワシントン海軍軍縮条約以降、陸軍も4個師団を廃止。それ以降、職業軍人に対する世間の目が厳しくなった。これがやがて不満を詰まらせ急進派軍人たちのテロやクーデターと言う直接行動を生み出す背景となった。

p183
国政選挙で女性参政権が認められたのは1893年のニュージーランドが最初。ドイツでは第一次大戦後,ヴァイマール憲法での1919年,アメリカでは翌年1920年,イギリスでも1928年。フランス・スイスでは,第二次大戦後の1945年・1971年だった。日本では1945年。

p223 「日本ファシズム」論をめぐって
このコラムでは「・・・確かに日本では,ファシズムの最大の特質と考えられるナチス流の強力な一党独裁体制を欠き,ヒトラーのような独裁者も出現せず,政治的反対派に対する徹底した大量粛清もなかった。天皇機関説の否認,国家総動員法の制定,大政翼賛会・翼賛政治会の成立(複数政党制の解消)などにより,明治憲法の立憲主義的側面は制定者の意に反して大幅に後退し,議会の権限は弱体化したが,憲法自体は改廃されなかったから,ドイツのナチス独裁やソ連の共産党独裁のような強力な独裁体制を作り上げることは困難だった。・・」
*日本の戦前の政治体制がよくわかる。確かに日本は軍国主義の国として進んでいってしまったが,ファシズムの国ではなかった。

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