読み終えた本 NOTO -能登・人に知られぬ日本の辺境- パーシヴァル・ローウェル著2016年12月28日

読み終えた本
NOTO -能登・人に知られぬ日本の辺境- パーシヴァル・ローウェル著
AN UNEXPLORED CORNER OF JAPAN
十月社 1991年
(本書ではローエルだがローウェルとした:昔からローウェルって言っていたし,辞典でもローウェルなので・・)

ローウェルについて
Percival Lowell (1855—1916)
アメリカの天文学者。ボストンの資産家の子として生まれる。ハーバード大学で数学を修め、1876年に卒業。祖父の綿業関係の仕事で1年間ヨーロッパに旅行したのち、実業界で活躍した。東洋への興味から、1883〜93年(明治16〜26)外交官の資格で日本に滞在し、日本の人情・習慣・ことばなどを研究し、また朝鮮にも旅行するなどして、紀行文や印象記を4冊著したが、なかでも『能登(ノト)』(1891)は日本の民俗をよく記している。小学校時代から天文学への興味をもっていたが、93年、日本から帰国すると私財をもって天文台の建設にとりかかり、翌年、アリゾナ州フラグスタッフ(標高2200メートル)に45.7センチメートルおよび30.5センチメートルの望遠鏡を設置した天文台を完成、96年には61センチメートル望遠鏡も備えた。彼はまず火星表面の観測に着手した。1877年の火星大接近の際、イタリアのスキャパレリが火星表面に「カナリ」(水路)を発見していたが、ローウェルはこれを人工構造物とみなし、技術をもった生物の存在を仮想し、その検証に熱意を注いだ。彼の火星に関する知見は1903年までに3冊の著作、1枚の写真としてまとめられ、広く普及した。また16年に『惑星の発生』を著し、天王星の摂動にかかわる天体は海王星だけでなく、ほかにもう一つの未知の惑星があることを予想した。この惑星は彼の死後1930年にトンボーによって発見され、冥王星と名づけられた。〈島村福太郎〉電子ブック版『日本大百科全書』

・気になったところのメモ

p44 ボーイ兼コックの山田栄次郎という青年を雇う。
沢山の缶詰、手製のパン、ウィスキー1本、ビール少々を携えて旅立つ。横浜のビールを褒めていて、日本でも宴会で飲むようになっていると述べている。
上野から高崎へ。5分遅刻したため列車に乗せてもらえず、3時間後に出発。高崎で一泊している。宿で出た缶詰の加糖練乳にうんざり。

ローウェルには、極東に関する四冊の著書があり、小泉八雲は三番目の著書「極東の心」を読んで来日を決意した。
ローウェルは能登での写真を撮ったはずなのに、初版本には写真が一枚も無かったため、訳者がローウェル天文台を調べてもらい、多数のネガは発見された。
日本と朝鮮に行っているのは、イザベラ・バードと同じだが、あとがきに依れば、旅行では無く、米国公使館の通達により、朝鮮李朝からワシントンへの外交使節団の随員としてだった。ローウェルは再三受諾を拒んだ末だった。帰国後、朝鮮には3ヶ月滞在した。
その後、ローウェルと共に渡米した使節団のメンバーが京城でクーデターを起こし、清国軍と日本軍との戦闘で、日本公使館が焼き討ちに会い、在留民婦女子が暴行、或いは殺害された。(甲甲の変 1884年12月)

p61 ロボットのようにという記述 いつからロボットという言葉があるのか?
*調べてみたらやはり「ロボット(robot)という語は、1920年にチェコスロバキア(当時)の小説家カレル・チャペックが発表した戯曲『R.U.R.(ロッサム万能ロボット商会)』において初めて用いられた。」Wikipedia というわけで,ローウェルの時代にはなかったので,訳者が意訳で使ったのだろう。

和倉温泉に最初に来た外国人はローウェルでは無く、二人の欧州人だった。

p130 人力車夫は25マイルも小休止するだけで走った者がいる。

p139 ローウェルは異教徒の信仰に敬意を込めて感動している。 針ノ木峠への道。山開き前のため難儀した様子が痛々しい。

立山下(りゅうざんした)から有峰へ、雪渓を案内人を雇って登る。一行が山小屋に到着する1日前に、樵が一人転落死している。

p181 コウモリ傘を紛失。遺失物の届けを出す。海外からの郵便を受け取る。

p185 奇妙な鳥の声の記述。ヒヨドリか?

p187 天竜下りの後、移動のために船頭を雇おうとするが、誰も相手にしてくれず,警官を呼んだが、パスポートの期限切れを見破られる。警官はどうせ東京に戻るのだからと強制送還はしなかった。
天竜下りでは、勝手に荷物を積まれたりしたが、途中で降ろさせたり、舟に乗れずに難儀している商人二人を乗船させ、料金は受け取らないなど。

天竜川には東海道線の鉄橋が掛かっている。

・あとがきから
同郷の親友、ビゲロー(ボストン美術館の日本美術部の基礎を作った)の後を追って来日した。
小泉八雲が来日したのは、ローウェルの七年後。

碓氷峠はまだアプト式鉄道が無く、鉄道馬車だった。
遅刻して乗り損ね、歩く羽目に。軽井沢を紹介したアレクサンダー・クロフト・ショーはローウェルの前年に軽井沢に来ている。上田城も車中から見ていおり、失われた武家社会を惜しむかの様な詩を詠んでいる。

何故能登に行きたかったのかといえば、地図を漠然と眺めている時に、その奇妙に曲がった形からだった。

ローウェルは学者一家に生まれたが、妹は著名な詩人であったこともあるのか、文才に長けており、学者らしからぬ筆致で紀行文をものしている。

能登旅行の前に 今の中央大学で講演し「劣悪なる欧米人になるなかれ、優秀なる日本人たれ!」と若い学生たちに述べた。

p223 「他の人たちがなんと述べようとも,私は日本人が地球の上での,最も幸せな民族の一つだと言いたく,それは彼らに接すると,こちらの心が非常に魅きつけられる事実でも明らかだ。」