読み終えた本 遠い崖 第3巻 英国策論2018年03月07日

読み終えた本
遠い崖 第3巻 英国策論

メモ
*オールコックの後を継いだパークスの銅像が、戦前の上海共同租界に建っていたが、中華人民共和国成立と同時に撤去されている。

*パークスがカントンの領事だった1856年、アロー号事件が勃発し、英仏連合軍が北京に侵攻したが、交渉が決裂して捕虜になってしまう。捕らえられた40名のうち、半数は虐殺されたが、パークスは無事帰還した。牢で鎖に繋がれて天井から吊るされたそうで、帰国してからは英雄扱い。Sir の称号も得ている。

*パークスは14歳の時から中国で暮らしており、初等教育しか正規の教育を受けていない。しかし、20年以上も極東外交に従事していた。日本に赴任する前は、日本人も中国人も同じアジア人と見ていた。

*サトウはパークスと函館へ行っている。そこでアイヌに会い、アイヌ語の単語を聞き出そうとしたが、その主人の漁夫に勘違いされて、邪魔をされてしまっている。
*函館ではブラキストンに会っている。(p48)彼を下等な人間と評しているのは何故だろうか。本書のこの項では、ブラキストン線で著名なブラキストンについては、何も触れていないのが奇妙。筆者が知らないずが無いと思うが、あえて歴史に関係ないとしてスルーしたのか。ブラキストンは他にシマフクロウの学名(Ketupa blakistoni)に名を留めている。
「それから製材所か何かをやっているブレキストン(Blakiston )。かつては陸軍砲兵大尉で、紳士だった男であるが、今は製材業者で、自分から進んで下等の人間に身を落としている。それが彼の性に合うためらしい。」
「そういえば、当地の外国人社会に触れた際、私にポニーを貸してくれたダン(Dun)のことを書くのを忘れていた。彼は善良な性質の男だが、残念ながら、他の外国人と同じように、下等な人間の部類に属する。(p49)
*このDunはEdwin Dunのことと思われ、(獣医師で明治期のお雇い外国人。開拓使に雇用され、北海道における畜産業の発展に大きく貢献した。後に駐日米国公使。Wikipedia)
ブラキストンはその後アメリカに移住し、ダンの娘と結婚している。ダンは北海道の畜産・酪農に多大な功績を残しており、日本人と結婚している。(1883年勲五等双光旭日章)これ程の人物を下等な人間とどうして評価したのか疑問が残る。

英国の外交手段を見ていると、彼らは「砲艦政策:Gunboat Policy 」で臨んでおり、幕府・雄藩も、砲艦の威圧に対して為すすべもなかった。西欧列強に対する当時の日本の立場は、先の大戦の敗戦を期に今も続いていると感じる。
昨今の中国の強気外交は、日本が感じている西欧に対する劣等意識の裏返しだと思うと納得できる。中国の感じているそれは、日本の比ではないだろう。だからといって、今の中国外交を支持するものでは断じて無いが。

薩摩から神戸に戻ってきた汽船胡蝶丸を訪ねたサトウに同行したシーボルト(アレキサンダー)は、島津久光と思われる人物を6フィートの巨漢だと述べているが、実はそれは西郷吉之助のことだった。この時、アオキと名乗る役人にも会っているが、その人物はどうも坂本龍馬だったらしい。

兵庫沖会談で幕府側で主導的役割を果たしたのは、小栗上野介だった。
(p187) この時点で、パークスは薩長とも通じていて、情勢を正しく理解していたのに比べ、ロシュは幕府への信頼が厚く、薩長側の真意を理解していなかった。

サトウは、ジャパン・タイムズへ、公使館の許可なく無署名で論説を投稿していた。(p222) これが、英国策論の原文となった記事だった。サトウは将軍の地位を以下のように考えていた。
「われわれは、次のことを心に銘記しておかなければならない。すなわち、将軍は、日本の政府を指導していると公言しているけれども、実際には、諸侯連合の首席に過ぎず我々との最初の条約が結ばれた時にも、そうであったに過ぎなかったと言うこと、そして、将軍が一国の支配者と言う肩書きを僭称するのは、この国の半分ほどしか、彼の管轄に属していないのだから、実に僭越至極な行為であったと言うことである。」
この時点で兵庫の開港は、条約により2年後に迫っていた。

Wikipedia によれば、
「英国策論(えいこく さくろん)とは、アーネスト・サトウが1866年に無題・無署名でジャパン・タイムスに寄稿した3つの記事を和訳したものである。「英国策論」と名付けられ、広く読まれた。イギリスの対日政策を示すものとみなされ、明治維新に大きな影響を与えた。
『英国策論』の骨子は以下の通り。
1. 将軍は主権者ではなく諸侯連合の首席にすぎず、現行の条約はその将軍とだけ結ばれたものである。したがって現行条約のほとんどの条項は主権者ではない将軍には実行できないものである。
2. 独立大名たちは外国との貿易に大きな関心をもっている。
3. 現行条約を廃し、新たに天皇及び連合諸大名と条約を結び、日本の政権を将軍から諸侯連合に移すべきである。

*これは、パークスが「この条約は将軍とだけではなく、日本と結ばれているものである。」と言う考えとは違い、この条約の問題点を鋭く指摘したものであった。パークスは公使として、その様な立場を取らざるを得ない。

英国策論は、サトウの知らない間に多くの写本が出回り、多くの大名の家臣たちが持つこととなり、直ぐにに出版されている。

幕府は陸軍の訓練はフランスに任せたが、海軍はイギリスに要請した。パークスは間違っても海軍までフランスに訓練させないよう、ロッシュにも根回しし、しっかりと手を打った。

パークス一行の薩摩訪問。グラバー、通訳のシーボルトも同行している。市内を見物の後、島津久光にも会っている。藩主茂久は、薩英戦争の事は忘れて友好関係を築こう、と挨拶。宴席は盛大で、45品の精巧を極めた日本の珍味、日本酒、シャンパン、シェリー酒、ビールが用意された。ウィリスの評価は非常に低かった。海産物が嫌いなのだろう。

p319 パークスは旗艦で宇和島に訪れ、藩主の接待を藩主の家族ぐるみで受ける。藩主の主治医が、シーボルト(父)の娘である「いね」で、通訳としてシーボルト(長男のアレキサンダー)が居たため話題に上った。「いね」に会ったかどうかは資料からは不明。

*次は「慶喜登場」

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