読み終えた本「イチョウ 奇跡の2億年史」2015年03月22日

イチョウ 奇跡の2億年史
読み終えた本「イチョウ 奇跡の2億年史」ピーター・クレイン著
河出書房新社 2014年9月30日
内容(「BOOK」データベースより)
長崎の出島が悠久の命をつないだ!ヒトの役に立ち、敬われてきたからこそ、この愛すべき樹木がたどったあまりに数奇な運命!2億年近く生き延びたあとに絶滅寸前になったイチョウは、人間の手で東アジアから息を吹き返した。その壮大な歴史を、科学と文化から描く名著。

冒頭に、イチョウを詠んだゲーテの詩
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ギンコー・ビロバ

はるか東方の彼方から
我が庭に来たりし樹木の葉よ
その神秘の謎を教えておくれ
無知なる心を導いておくれ

おまえはもともと1枚の葉で
自身を二つに裂いたのか?
それとも二枚の葉だったのに
寄り添って一つになったのか?

こうしたことを問ううちに
やがて真理に行き当たる
そうかお前も私の詩から思うのか
一人の私の中に二人の私がいることを

ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ 1815年9月15日
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著者は、王立キュー植物園の園長を7年間勤め,現エール大学教授。

長崎・オランダ商館付き医師のケンペル、チュンベリ、そしてシーボルトと、イチョウにまつわる話についてかなりページを割いている。
日本における、イチョウの精子の発見。1896年(明治29年)、小石川植物園の平瀬作五郎の研究。受精の瞬間を観察した。
イチョウの雄木には、時に数個の実が成ることがある。絶滅を防ぐ戦略である。
イチョウについては,以前書いたことがあり,興味深い。
http://www.asahi-net.or.jp/~fv9h-ab/kamakura/botanical-essay1.html#Anchor118558
イチョウが絶滅を免れたのは偶然かもしれないが,大絶滅の後にも生き残ったのは,人に依る増殖があったからだ。
絶滅危惧種を救うヒントがここにある。
以下,メモ。

p108 日本一大きなイチョウは、青森県・北金ヶ沢のもので、2004年に国の天然記念物に指定された。

p110 すべての物事には季節があり、天の下のおけるすべての営みには時期がある。生まれるものにも時期があり、死ぬにも時期がある。 伝道の書 三章一-ニ節
天が下の萬の事には期あり、萬の事務(わざ)には時あり。

リンネは虚栄心が強く、尊大な男だったが、生徒達を連れた、ウプサラ郊外への遠足は、音楽や豪華な食事付きで、伝説になっている。

p116 スコットランド・アバディーン郊外のライニーに、ライニー・チャートと呼ばれる堆積岩から、オルドビス紀からの植物化石が多数見つかった。熱水泉の近くだったため、良い状態のものが多い。

p184 世界中でイチョウの化石の発掘が行われ、各地で見つかったが、ヨーロッパでは、フランスなら北はパリから南はモンペリエまで繁茂しているし、ゲーテの家があったドイツでも育っている。しかし北のフィンランドでは育たず、反対に、南のシチリアやギリシャでも育たない。オーストラリアではメルボルンやシドニーの街路では育つが、ケアンズやダーウィンでは見当たらない。イチョウが生育する緯度の範囲は決まっている。

p196 ヨーロッパのイチョウは、寒冷化と乾燥化によって南に移動した。

p204 グレイの研究により、ダーウィンが疑問に思っていた、北米東部と東アジアの植生が似ていることは、地域絶滅にあることが明らかになった。

p233 イチョウが初めて登場する文献は、埃嚢鈔(1446年)で、尺素往来には銀杏とカタカナでイチョウの文字、それに鴨脚。イチョウが日本に到来したのはおそらく1300年頃。

p251 28章 名前をもらう に,何故ginkyoではなくginkgoになったのかが書かれているので,そのまま引用する。
---以下引用
 ケンペルはヨーロッパにイチョウを紹介した時、ギンコー(ginkgo)と言う言葉を使った。なぜこんな奇妙な綴りの単語を使うに至った日については諸説あり、既に多くの文献に書かれている。このことについて理解するためにはまず、彼が滞在していた17世紀後半の日本でイチョウがどう呼ばれていたか、また書き表されていたかを知る必要がある。
 13世紀から14世紀にイチョウが日本にもたらされた時、いくつかの名前が中国から一緒に入ってきた。現在も使われている「銀杏」もその一つだ。日本語は中国の書き文字である漢字を使うから、中国語の「銀杏」をそのまま使えた。ケンペルにとってはなじみのない文字だったが、彼はその文字を『廻国奇観』の本に入念に書き写した。彼は「銀杏」ではなく「杏銀」と書いている。ーーー当時の日本語は、横書きであっても右から左に書いたからだ。そして音訳として、日本人通訳者から聞いた「イツジョウ」と「ギンアン」の二種類を載せた。
 中国の資料にイチョウが初めて登場した時、銀杏と鴨脚という2つの名が使われていた。その後、元の時代に入ると白果、公孫樹,白眼と言う名も使われるようになる。白果は話し言葉として中国で広く使われており、銀杏はどちらかと言えば書き言葉だった。日本では、ケンペルの時代も現在も、銀杏と言う漢字に対して「イチョウ」と「ギンナン」と言う2種類の読み方がある。堀志保美と堀輝三はなぜこんな風に読まれるようになったのかを調べ、もとの中国語である鴨脚と銀杏の発音が崩れたからだろうと推察した。標準的な現代中国語であれば鴨脚と銀杏はそれぞれ「ヤーチャオ」「インシン」と発音する。しかし,新安船(*1323年6月,中国から日本への航海中に沈没した商船で,青磁のほか積荷にイチョウの実が含まれていた)の故郷であり日本との交易が盛んだった江蘇省南部や浙江省北部の方言では、鴨脚は「アイチョウ」と,銀杏は「ニンアン」と発音する。
 ケンペルが書いた「イツジョウ」と現代日本語の「イチョウ」、同じく「ギンアン」と「ギンナン」のつながりは説明するまでもなく明らかだ。だが、ヨーロッパにおけるギンコー“ginkgo” という言葉はどこから来たのだろう?堀志保美と堀輝三はその答えを日本語に特有の性質に求めた。日本では、中国から輸入した漢字に、かなと呼ばれる表音文字を当てることがある。
 銀杏と言う漢字に対応するかなを、15世紀から18世紀に日本で出版された辞書や書籍で調べた堀志保美と堀輝三は、驚くべき発見をした。「銀杏」の読み方は、ほぼ全ての文献で「イチョウ」または「ギンアン」、あるいはそれによく似た発音が記されている。ところが、ケンペルが滞在していた頃広く使われていた17世紀の絵入り辞書二点においてのみ、「ギンキョー(ginkyo)」と言う読み方が載っていたのだ。1617年から1619年ごろに再販された辞典『下学集』には銀杏の発音として「イチョウ」と「ギンキョー」が載っており、1666年に出版された『訓蒙図彙』には「ギンナン」と「ギンキョー」が載っている。
 史学者A・C・モールは1940年代に、現在は大英図書館に収蔵されているケンペルの原稿を調べた。ケンペルがギンコー“ginkgo” と名付けた植物についての言及は10カ所あった。うち、1カ所で「図版集キンモチジュイからの引用」と書かれていた。堀志保美と堀輝三は、このキンモチジュイとは明らかに『訓蒙図彙』ーきんもうずいー のことであり、ケンペルがこの図版集を日本滞在中に手に入れたのだろうと判断した。ケンペルは、日本にいる間も、帰国後に『廻国奇観』を執筆している時も、『訓蒙図彙』を参照していたということだ。そして『訓蒙図彙』に載っていた「ギンキョー」と言う発音から、ギンコー“ginkgo” と言う語を作ったのだろう。その後、リンネが承認したことで、この17世紀で国際的に最も有名な日本語となった。
 最後に残った謎は、なぜケンペルはギンキョー“ginkyo”ではなくギンコー“ginkgo” としたのかだ。ケンペルは自著の序文で、日本語の長文を一字一句間違えずに書き写している。彼は日本語とその読み方、その読み方を文字で書くときの法則について、詳しく調べていた。そこまで神経をとがらせただけあって、ケンペルの『廻国奇観』にアルファベットで書かれている植物名は17世紀の日本での発音にかなり忠実だと、堀志保美と堀輝三は認めている。なのになぜ、ケンペルはイチョウに限って綴りを一文字、変えたのだろうか。
 これを、単なるミススペルだと片付ける人は多い。ケンペル本人が間違えたのかもしれないし、植字工が間違えたのかもしれない。だが、堀志保美と堀輝三は、ケンペルが意図的にこのスペルを採用した可能性を指摘する。ギンコー(ginkgo)の2番目の「g」はケンペルがドイツ北部の出身であることに関係していると言うのだ。ドイツ北部の方言では、ヤ・ユ・ヨの発音を「g」で書き表すことが多い。例えば,「ユット」と聞こえた単語を「gut」と書く。それと同じように、ケンペルは聞こえたままの「ギンキョー」を故郷の綴りで「ginkgo」と書いたのではないだろうか。
----以上

*これで謎が解けたかに思ったが ,本書の注にはまた別の説が書かれている。
28章注(4)
「ginkgo」の2番目の“g”が,ドイツ北部の方言の問題だという考え方は興味深いが,ケンペル研究の学者ウォルフガング・ミヘルは,ケンペルが別の日本語,たとえば,“kyo” や“kyo(oの上に-の長音)” が入っている植物名で,きちんと“y”を書き写している点を指摘し,ケンペルが間違えたという説を推している。以下参照,Wolfgang Michei's Research Notes(Michel,2009).ほかに,ケンペルは専属通訳の今村源右衛門の発音,つまり当時の長崎で話されていた方言の音に忠実に従っただけという説もある(Van der Velde,1995)。たとえばイチゴは,現在でも長崎の方言では(tzingo)と発音する。これは,ケンペルが『廻国奇観』に書いたのと同じ綴りである。(法政大学の長田敏行による私信)。

参考
堀 輝三(ほり てるみつ)
1938年生まれ
1967年東京教育大学院理学研究科植物学専攻修了
1969年東邦大学理学部
1978年〜
2002年まで筑波大学生物科学系

堀輝三の著書(写真集)
写真と資料が語る総覧・日本の巨樹イチョウ--幹周7m以上22m台までの全巨樹 単行本 2005/12
堀 輝三 (著), 堀 志保美 (著) 出版社: 内田老鶴圃 (2005/12)

p254 ケンペルの膨大なコレクションは、死後、ハンス・スローンのものとなり、ロンドンにある。

p268-278 オスの木ばかりだったイチョウに,メスの枝を接ぎ木することで種子が得られた。ヨーロッパへはおそらくオランダから広まっていき,ベルギー,イギリス(もちろんキュー植物園)に植えられ,フランスへはロンドンの園芸業者を酔わせて破格の値段で買取り,フランスへ運んだが,その時の値段40クラウン(120フラン)にちなんで「40エキュの木:ラルブル・ド・カラント・エキュ」となったという。世界中にイチョウは広まり,広瀬作五郎の受精の研究により,さらにブームとなった。現在では,イチョウの栽培品種は220にものぼり,うち28種は種子を見ただけで品種が判別できるという。盆栽も人気で,「乳」からとって挿し木にしたものは,特に珍重される。「乳」は古木にしかできないからだ。(先般訪れた,三崎の海南神社のイチョウには立派な乳があった)

p283 イチョウは,台木に,若葉が出る直前のメスの枝を何本か接ぐことで,上に伸ばさずに,低く枝を張るようにできる。トポフィシス効果という。

p286 ケンペルは「日本誌」で,日本ではギンナンから油をとっていたと述べている。

p288 筆者は鶴岡八幡宮の屋台で焼いたギンナンを食べたことがある。

p318 オーストラリアのウォレミマツ(110個体)が,苗木を売り出したことで世界中で増え,絶滅を防いだ。イチョウは人に育てられたことによって,絶滅を免れた。メタセコイアも同様だ。「生息域外保全」という手法。

p322 種の保全に関して「介入できることがあるのにそれをしないで種を絶滅させることは,本の読み方をおぼえたら図書館は焼いてしまってもいいという考え方に等しい」。種が絶滅するたびに,私たちの世界とそこにあるすべてがどのようにして形作られてきたのかという証拠が消えていく。

p329 生物多様性条約は,大国のエゴと,発展途上国との利害がぶつかり合って,方向性が定まっていない。

アーネスト・ヘンリー・ウィルソンの名が度々登場するが,屋久島のウィルソン株にその名を残す。
(Ernest Henry "Chinese" Wilson、1876年2月15日-1930年10月15日)は、イギリスのプラントハンター。約2,000種のアジアの植物を、ヨーロッパ、アメリカ合衆国に紹介した。約60種に彼の名前がつけられた。屋久島の胸高周囲13.8mの切り株、「ウィルソン株」を調査、西欧に紹介したことでも知られる。Wikipedia

参考図書 本書の解説者(長田敏行:元東大附属植物園長,現法政大学教授)
「イチョウの自然史と文化史」(裳華房,2014年2月)