読み終えた本「甘粕正彦 乱心の曠野」2013年03月04日

甘粕正彦 乱心の曠野
「甘粕正彦 乱心の曠野」佐野眞一著 新潮社 2008年

関東大震災の折り,無政府主義者の大杉栄,伊藤野枝,6歳の甥を絞殺した罪で服役,恩赦で三年後釈放,後に満州映画協会理事長となり,終戦直後に理事長室で自決した元憲兵大尉,ということは,多少は知っており,映画やドラマで時々目にしていたが,その人物像に非常に興味があった。

この本はドキュメンタリーで,徹底した取材に基づいている。そこには憶測はほとんどない。満州国の建国に関わった重要人物であるということ,これに関わった,歴史の裏に隠された人脈や逸話に満ちている。戦後世代の私には,詳しく聞かされたことの無いことばかりで,圧倒された。

こんな逸話が紹介されていた。
釈放後,陸軍の援助でフランスへ遊学したが,荒れ放題に荒れた暮らしを送ったようだ。本では,甘粕は陸軍のスケープゴートにされたという。自ら全ての罪を被るつもりだったようで,荒れるのは無理も無い。士官学校の先輩でもある東条の計らいなどで,満州に渡り,天津に身を隠していた溥儀を連れ出したのは甘粕だった。溥儀は甘粕を非常に信頼し,側に置くことを望んだが,叶わなかったという。
また,映画監督として私も名前だけは知っている内田吐夢は,満映理事長室で甘粕が服毒したとき駆けつけ(甘粕は最後の別れの会で自殺を断言してしたので二人交代で寝ずの番をしていた),泡を吹いてまだ命のあった甘粕にまたがり,食塩水を胃に流し込んだという。そんな人だったのだ。

こんな話もある。昭和19年11月,新京(長春:満州国の首都)で,劇作家の北条秀司が甘粕の接待を受けた時,甘粕は新京放送の若手社員に命じて,ヒトラーやチャーチルなど世界各国の指導者の物まねをさせた。おかしさで抱腹絶倒だったという。その多芸・多彩な青年が若き日の森繁久彌だったという。

指揮者・小沢征爾の父は民族主義者で,満州国協和会の設立メンバー。征爾という名は,親交のあった板垣征四郎と石原莞爾から一字ずつもらったという。満州国建国には本気で五族共和,王道楽土を具現するために働いた多くの理想主義者がいたことを知らなかった。

甘粕には「主義者殺しの冷酷な元憲兵大尉」の面と,満映理事長着任後,低く抑えられていた中国人職員の給料を二倍以上に上げるなどした広い包容力を持った「人格者」の面があったという。様々な権益で得た豊富な資金は私利には使わず(事実,妻子のいる本国の家も他人名義だった),関東軍に提供していたという。甘粕は思想には捉われず,満映の周囲には右翼も左翼くずれも同居していた。甘粕自身は満州国における「五族(漢人・満州人・蒙古人・朝鮮人・日本人)協和」「王道楽土」を具現しようと,真剣に任務を全うしようとしたように思える。

教養もあり人格者だった反面,酔うと人が変わった様になって行なった奇行も数多くあるそうで,真実を隠し続け,苦悩する甘粕の心情が伝わってくる。

甘粕はアジアでの排英活動に参画し,イスラム圏にまで手を伸ばしていたという。英欧の支配からアジア各国を解放しようとした甘粕は,戦後に独立した各国の状況を見ることがなかったことが惜しまれる。

本の最後で,新たな資料により,大杉等殺しの下手人が明かされる。濡れ衣をあえて着て,ほとんど何も語らずに死んで行った甘粕の心情は察するに余りある。

この部分は実に考えさせられるので,本書から引用する。
----
「最後の職場となった満映の全職員に退職金を渡した上,貨車の手当までして満州を脱出させ,自らは服毒自殺した元憲兵大尉の甘粕と,部下を戦場に残し,自分は勲一等旭日大受賞の栄誉を受けた陸軍中将の澄田(らい四郎:らいは「貝」偏に「來」)のどちらが本当に立派な日本人だったのか。」
----

戦後生まれの我々は,「戦争を知らない子供たち」だった。教えられてもこなかった。戦争を知らないでは済ませられない。私達団塊の世代の子供時代は多少なりとも戦争の匂いがした。それは進駐軍の米兵であったり,白い服を着て上野公園でアコーディオンを弾いていた傷痍軍人だったりだ。だが,それ以上は知らない。私達の子供ならなおさらだし,その子ともなれば,どうなってしまうのか。はたして,このままで良いのだろうか。