読み終えた本 「日本の朝鮮統治を検証する」2014年07月09日

日本の朝鮮統治を検証する
読み終えた本
「日本の朝鮮統治を検証する」
ジョージ・アキタ,ブランドン・パーマー著
思草社 2013年

ほとんど和訳されていない資料からの検証

p55 日本で徴兵令が発布(1873年)されてから,1883年までに,徴兵の抗議する暴動(血税一揆など)が起きたことにに比べ,朝鮮でのそれは目立った騒動もなく施行された。

p67 大隈重信の朝鮮政策。「われわれの朝鮮政策を,永続的な成果を伴うものにするためには,第一に,経済の発展との調和の下になされなければならない。・・・個人間における真に有益な取引では双方が共に受益者となる。・・・(われわれは)隣国,特に朝鮮を犠牲にしてわが国を偉大にすることは,決してできないのである。

p71 原敬は朝鮮の人びとの日本語能力を高め,日本人と同じ教育を施し,朝鮮人議員が将来,帝国議会に進出することは,何の問題もないと考えていた。つまり,北海道や沖縄と同等に扱うというものだった。

p148 ここで読者諸氏は,三つの史実に注目していただきたい。
まず,クーリー氏が称賛する通り,近代日本の政治的発展は早く始まったこと。家永豊吉の”プレゼンテーション”にクーリーが感銘を受けたのは1889年,つまり明治維新のわずか22年しかたっていない時点でのことだった。二つ目は,そのわずか二年後の1891年に,大審院院長児島惟兼と判事たちが日本における司法の独立のために決定的な役割を果たしたことである。そして三つ目はミリューコフが1903年にアメリカで家永(豊吉)の講演を聞き,その内容を高く評価したことである。
 それから1世紀以上の歳月が流れた現在,中国は相変わらず共産党の一党独裁体制である。・・
※大津事件でニコライ皇太子を襲った巡査を,司法の独立により正当に裁いたことを受けて。

p173 欧米と日本の植民地政策を比較して・・
 英国ダーラム大学のキース・プラット氏は,朝鮮における日本の朝鮮統治の最初の十年を「恐怖の統治」と呼んでいる。だが,朝鮮人民が直面した「恐怖」は,実際には,これまで述べた欧米の宗主国による強制労働,強制収容所あるいは人種差別政策とは比べようにないようなほど緩やかなものだった。
 第一に日本は,オランダ領東インド諸島,あるいはイギリス,フランス,ベルギー,そしてポルトガル領アフリカの植民地で等しく見られた強制労働に頼っていない。第二に,日本は,1907年から1910年までの間に起こった抗日武装運動を鎮圧するにあたって,民衆を強制収容所に収監していない。だがこれはアメリカも,ドイツも,イギリスもそれぞれ植民地で実施したことなのである。そして第三に,日本は朝鮮に経済・産業・教育等のインフラストラクチャーを構築すべく,他の植民地保有国のいずれよりもはるかに多くの努力を払っているのである。

p177 それでも日本が進もうとした方向は正しかった。朝鮮総督府は「漸進主義」を実施する中で,中等教育を発展させる前に,あらゆる村落にまず小学校教育を浸透させることで精一杯だった。1939年には,単科大学および師範学校在籍の学生数は6313人。それに加えて,合計206人の学生が当時の朝鮮では唯一の総合大学だった京城帝国大学(創立1925年)に在籍しており,さらに数千名の朝鮮人学生が日本での教育を受けていた。1942年の時点で,約1万4千人が日本の中学校に通っており,さらに6771人が日本の単科大学あるいは総合大学で学んでいたのである。

p183 日本が朝鮮で行なった最大の投資は,広範な鉄道網の構築だった。・・他に化学・食品・繊維・金属などへの投資を「朝鮮の福祉は本国日本人の犠牲の上に成り立っている様なものだ」と日本人のある学者は評している,という。
 百貨店の7割の客は朝鮮人だった。

p186 1905年から1945年の間に,朝鮮では一度も飢饉が起きていないことは注目に値する。

p231 総督府は「穏健な植民地政策」に基づき,小作農に有利な小作調停令(1932年)と農地令(1934年)を制定した。これらの処置は,日本人と朝鮮人の地主の双方との間で起こった争議の際に,総督府は小作農側に付くことを意味した。

p233 申起旭氏の結論 私はナショナリズムに反対する立場から執筆することにした・・・そして現在の韓国における社会・文化的実態を理解するために,朝鮮の早期の近代化の体験に改めて焦点を当てることにしたのである。・・・この点に関する決定的な真実は・・・朝鮮に近代化が訪れたのは日本の植民地統治時代だったということだ・・・

p238−239 統治下朝鮮と日本における農地改革運動 朝鮮の統治改革の先駆者たちは,明治時代の日本の農地改革運動に強く影響を受けた。彼らは日本の農学校で学んでいた。

p242 ある者は日本語を学び,日本人が経営する会社や日本人が優位を占める官僚社会に飛び込む決断を下した。また,集中的な職業的経験を積むことによって「解放後の朝鮮」で「貴重な人的資源」となる者もいた。端的に言えば「植民地時代が終わるまで」に,「野心的な若者」を含む「多くの朝鮮人」は,「責任感が強く,独立心が強く,熟練した工場労働者としての身分を確立させ,・・・彼等に対して開かれていた労働階層の上層部に食い込んだ」のである。

p246−247 文化面での継承 「現在の韓国の文化遺産の格付け」は「1934年から41年までの植民地当局による記載」と同じ順序で通し番号が付いている・・

p252 従軍慰安婦について ほとんどの場合,従軍慰安婦になる過程は開かれたものであり,当該女性(とその家族)は,自分が行く先が売春宿であることを認識していた。当時,おびただしい数の朝鮮人女性が,父親または夫によって売春宿に売られたり,あるいは家族を貧困から救うために自ら進んでその道を選んだりしていた。朝鮮の儒教的父権社会にあっては,女性は使い捨て可能な人的資源として扱われたのであった。
※1992年1月の朝日新聞の報道,日本軍は「朝鮮人女性を女子挺身隊の名で強制連行した」という記事で過熱したが,朝日は「史実を真摯に検証」することはしなかった。(訳者あとがきから)

p277 韓国の最初の民法は1958年に公布され,その後,1960年に発効したことと,さらにそれが完璧に日本の民法に基づくものであることは議論の余地がない。

p283 このような植民地時代の遺産の範囲と質は存分に討議されていいが・・・植民地体制下で進められていた朝鮮の産業化が韓国産業のその後の大変身の礎となったことに,ほぼ議論の余地はないのである。

p296 スメサートス氏の論では,日本では土地改革が進行中だったし,婦人参政権運動の由来ははるか戦前に遡る。クレーマー氏は,日本の戦前に”ファシスト”教育などは施行されていなかたとし,なぜなら1925年から45年の間に教育改革に関する活発な議論が展開されていたからだとしている。また,ティーターズ女史は大津事件を通して,日本には強力で独立して司法があったことを証明し,ミッチェル氏は,帝人事件を観察することによって同様の点を明らかにしている。議会制度は継承して機能しており,選挙が行なわれ,国民はその結果を重んじた。東条英機は世界大戦の途中で宰相の任を解かれた,交戦国で唯一の指導者だった。・・・戦前の日本の肯定的側面は枚挙にいとまがない。日本人は自らの過去に不当な負い目を感じながら生きる必要などないのである。

p302−303 希望と可能性の地だった植民地朝鮮 ・・・(労働者たちは)しきりに勉強したがり,工場生活における日常業務や規則に直ちに適応していった。・・・工場のある町は人気があった。なぜならそこにはつねに仕事があり,本雇いの労働者は米や牛肉を買い,オンドルのある部屋や一戸建ての家に住むことができたからである。これのほかの土地では,ほとんどあり得ないことだった。・・・小学校の卒業証書があれば・・・十代の少年は地方政府の事務員,日本資本の店の店員,あるいは地方の警察署の職員の職に就くことができた。そして,こうした仕事は本人ばかりか,その家族の地位をも向上させたのだった。

※台湾やフィリピンに対しても同様な政策であったことを伺わせる。ようするに古代ローマが行なった同化政策となんら変わりはないように思える。大航海時代の「植民地政策」とは全く異なることは自明だ。(阿部)

内容紹介
近年アメリカでは日本の朝鮮統治に関する実証研究が進み、史上最も苛酷な植民地支配といった民族主義の視点に立つ暗黒史観は修正されつつある。米国の歴史学者が10余年に及ぶ研究にもとづきこれを検証。日本統治下の朝鮮では現実主義、相互主義的でバランスのとれた政策が実施され、それが戦後韓国の発展の礎となったと結論づけた瞠目の書!

内容(「BOOK」データベースより)
日本の朝鮮統治史研究においては、統治下の朝鮮の人々の否定的な体験に焦点をしぼった民族史観的パラダイムが大勢を占めてきた。だが、こうした体験談のみで朝鮮統治のすべてを語れるのだろうか。アメリカの2人の研究者が、あくまでも史実に基づき、可能な限り客観的にこれを検証。本来の意味での修正主義史観による最新の研究成果を紹介しつつ、日本の統治政策が「当時としては驚くほど現実的、穏健かつ公平で、日朝双方の手を携えた発展を意図した」ものであり、朝鮮の近代化に貢献し、戦後韓国の奇跡的な発展に繋がったことを明らかにしてゆく。ナショナリズムに偏した一面的な歴史認識に180度の修正を迫る第一級の研究書である。
Amazon.jpより