読み終えた本「日本語の歴史」2012年11月25日

日本語の歴史
読み終えた本「日本語の歴史」 山口仲美著 岩波新書
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p84 源氏物語は和歌的散文 薫大将がお忍びで月明かりの下を行く場面,「主しらぬ香」は古今和歌集の「主しらぬ 香こそにほへれ 秋の野に 誰がぬぎかけし 藤袴ぞ」による。秋に匂うフジバカマと,香を薫きしめた袴に掛けたものか?この香に寝ていた人々が目を覚ますと言うのも大げさだが,うまい表現。

p88 「係り結び」 あったなぁ,そういうの。未然,連用,終止,連体,已然,命令・・「ぞ」「なむ」「や」「か」は係助詞でこれがあれば終止形ではなく連体形で結ぶ。「こそ」なら已然形で結ぶ。と云われても,もう思い出せない。鎌倉・室町時代には消えていった表現だそうだ。
痕跡が残っているもの「仰げば尊し」の歌詞,「今こそ別れめ」の「こそ」と「め」がそれ。「め」は,意志を表す助動詞「む」の已然形。
他に「蛍の光」の「あけてぞけさは,別れゆく」の「ぞ」と「ゆく」,「ぞ」を受けて「ゆく」の連体形で結ぶ。そうだったのか・・山口先生の教え子にオランダから来た学生がいて,「蛍の光」の話をしたら「それはサッカーの応援歌です」と言ったそうで,勢いよく歌うのだそうだ。へぇ~。

p112 平家物語では「コソ」~「ケル」が登場し,本来「ケリ」の已然形がくずれ連体形になっている。その後,「ぞ-連体形」は消え,「こそ-已然形」が江戸時代まで残った。

p118 平安時代以降,終止形と連体形が同じになってしまった。「何々す」の終止形が「何々する」と連体形と同じになった。室町時代の末期には連体形で結ぶ係り結びがすべて消滅した。

p125 促音「ッ」と撥音「ン」は武士の言葉。「がっしがっし」「むんず」

p129 江戸時代,文中の話し言葉は会話文で書く様になった。→浮世風呂
 庶民の会話の様子がわかる。父を「ちゃん」,女の子も「坊」と呼ぶ。ばばっちい,犬をわんわん,おんりしな,服をべべ,など。今もあるもの,ないものが散見。ただし「地の文」は書き言葉。江戸時代までは「じ」「ぢ」と「ず」「づ」の発音が違ったが,元禄年間に多くの土地で今と同じになった。「奥の細道」では区別がない。

p138 良く聞く話だがこの本に詳しく書いてあった。奈良時代以前ではハ行子音は今のパ行子音と同じだった。その後,ファ,フィ,フ,フェ,フォになり,江戸時代に今と同じハ行になった。「母」は,パパ,ファファ,ハハと発音するようになったという。その結果,「ヒ」と「シ」の区別ができなくなった。江戸語がその典型。他に江戸語では「アイ」が「エー」,「アエ」が「エー」。相当ひどくなったが,次第に緩和され,現在は「あぶねー」「うめー」,「おめー」「てめー」「おせーたげる」などに残っている。

p149 上方では江戸語の「観音様:かんのんさま」をけしからんと言っていた。なぜなら,「観音」の「か」は「くゎ」と発音していたので,「くゎんおんさま」と発音していた。江戸中期までは「火事」は「くゎじ」,「家事」は「かじ」と区別していた。今でも区別が残る地方がある。「kan-on」が「kannon」になるのは連声(れんじょう)という。

p152 「オメエ」「キサマ」はどんどん尊敬語の価値が下がって行った。「オレ:俺」は女も使った。「僕」は学者言葉で漢文から。→吉田松陰書簡では僕といっている。

p158 江戸末期の記録では武士達は互いに「ワタクシ」「ワタシ」「ワシ」「オレ」「テマエ」「キサマ」と言っていた。「オメー」は町人だけ。武士は公の場では「なんぢ」「貴殿」「貴所」「貴公」「御辺」「お身」「そのもと」「その方」「そち」など。自分は「それがし」「みども」「身」「われ」「拙者」など。現在の敬語表現は江戸時代から。

p169 言文一致 井上ひさしの戯曲「国語元年」(昔NHK:1985年 でやっていた。ちあきなおみの演技というか鹿児島弁が素晴らしかったのを思い出す)東京語を標準語としていく過程。(明治のおいこら警官はほとんど薩摩藩士だったので,薩摩っぽと蔑まれ,「まっぽ」は警官の俗語として今でも使う:阿部注)
公用文を漢字カナ交じり文で書く。→五箇条の御誓文 カナが入ってきただけで画期的。
福沢諭吉の「学問のすゝめ」は「かな交じり」と「カナ交じり」の両方がある。福沢はひらがなを推した。諭吉は「福翁自伝」以外は言文一致の文章はない。

言文一致は明治11年に再び文語文体に戻ってしまう。権威のため。

西周は外国語を翻訳,新しい漢語を量産したが,かえってこれが足かせになった。和語では長過ぎる。surviseは奉仕なら良いが,「つつしんでつかえる」では長過ぎる。

日本語をすべてかなにしようとか,ローマ字にするという運動もあった。
坪内逍遥のすすめで,二葉亭四迷は「浮雲」を書く。「です」「ます」ではなく「だ」調。

言文一致の動きに対抗する様に幸田露伴が雅俗折衷体で「風流仏」を書き,森鴎外の「舞姫」:明治23年 の雅文でこの動きを封じた。(舞姫などは何度読んでも美しい文章だと思う)
ついに新聞が「漢字かな交じり文」の文語文になってしまう。そのなかで,尾崎紅葉が言文一致の小説を書く。会話文と地の文が一致した方が読みやすい。~である調。国定読本が口語文で書かれる様になった。言文一致会は明治43年に解散。

大正11年に大手新聞がすべて言文一致に。しかし,公用文が言文一致になったのは昭和20年。

本の最後に「です」「ます」調と「である」「だ」調とどちらを使うかは気分で変えてもよいし,文章の途中で織り込むこともよい,と山口先生は書かれている。なるほど,そうだったのか。ブログなどはいつもそれで悩む。悩まないで良いのだ。先人のお陰で現在は誰でも自由に文章が書ける。その通りだと思う。また分かち書きをしないでも読める文章は日本語くらいだろうと仰る。これもなるほど。

同じ漢字に複数の読みがある点や,外来語の扱い,語彙が多すぎる点など問題はたくさんあるが,日本語はまだ変化を続けていく。先生は書き言葉と話し言葉はどうしても乖離していくものなので,また問題が出て来る時がくるとおっしゃる。そうかもしれない。