読み終えた本「アンソロジー ビール」2014年08月20日

読み終えた本「アンソロジー ビール」
読み終えた本「アンソロジー ビール」
パルコ (2014/7/1)
著者:東海林さだお、川上弘美、阿川佐和子、山口瞳、吉田健一、川本三郎、恩田陸、平松洋子、久住昌之、角田光代、辰巳浜子、室井佑月、北大路公子、赤塚不二夫、内田百けん、大竹聡、椎名誠、村松友視、阿川弘之、伊藤晴雨、坂口謹一郎、星新一、小泉武夫、森茉莉、種村季弘、岩城宏之、開高健、千野栄一、小沼丹、田中小実昌、吉田直哉、立松和平、石堂淑朗、丸山健二、永井龍男、矢口純、佐多稲子、獅子文六、遠藤周作、吉村昭、長田弘。

※発表年度が無いので,時代背景がとっさには分からないのが残念。

存命の作家,物故者のビールに関するエッセーが,ちょうどリレーの様に引き継がれていくのは,面白い編集だと思った。この配慮が読み易くしている。
「孤独のグルメ」の久住昌之が載っていたのは,ちょっと以外だった。
赤塚不二夫は文章ではなく,漫画だった。これでいいのだ!

p58 辰巳浜子(料理研究家)ビールのつまみ どんなものがあるのか,OCRで取り込んだ。

 空豆、ピース、枝豆の塩茄では春から夏の味で、秋は煎りたてのぎんなんなど気がきいています。五、六月は島根県日ノ御碕のわかめを焼いていただいております。一年中絶えず繰返すのは、お正月の鏡餅を堅餅に干したり、寒餅をたんざくに切って一年分干しあげておき、揚餅にするのです。良質の昆布を揚げて混ぜ、盛りかごに盛るのですが、これはたいそうよく受けます。
 ポテトチップ、じゃがいもを薄く同じ大きさに切るのはなかなか技術を要するので、干六本に切って一度水にさらして揚げるのです。さつまいもを同じように扱うのもなかなかよろしいものです。ごほうを木綿針の太さに切って水にさらし、生小麦粉をかけ、ちょっとまとめて揚げるとパリパリしてとても喜ばれます。らっきょうを塩漬けしてちょっと酸味をもつようになったものを、冷たくしてガラス器に盛って出すとどなたも絶賛されます。玉葱の薄切りを氷水でさらして冷たくパリッとさせ、花かつおをかけて生醤油を少々かけるのも、食パンの薄切りをサラダ油で揚げ、オイルサージンを玉葱でマリネしてパンの上にのせ、レモンの薄切りととき辛子を添えるのもビールによく合うものです。
 燻製、ハム、チーズの類、また木の実を三、四種類混ぜ合せたものをおすすめします。
 ビールにはなるべく、油けを使ったものをおつまみにされるほうが、からだのためによいようです。

p80 内田百間(間は正しくは門構えの中に月:うちだひゃっけん)タンタルス(上)
夏目漱石門下なので,戦時中のことを書いたのではないかと思う。店でビールを飲むのに,一人当たり一本と決まっていた。同じようにサイダーも一人当たり一本なので,下戸と一緒の時は,サイダーとビールをそれぞれ頼んで,下戸にサイダーを飲ませ,自分は2本飲む,ということをやる。「そこを何とか」が通じない時代のビール好きの悲哀が描かれている。

p97 椎名誠 生ビールから,「生」が付くものに言及し,生足は分かるが,「生首」はどうしてわざわざ「生」を付けるかわからない,と書いている。これはおそらく,討ち取って切り取られた首は,首実検の為に塩漬けにされたためだろう。塩漬けの首に対して,そうなっていない,切り取ったばかりの首を「生首」と云ったと思われる。椎名ももう少し考えてはどうかと思った。

p174 ネパールのビール 古田直哉:演出家・テレビディレクタ この話はとても良かったので,後で,全文を掲載する。

p208 獅子文六 時代だろうか,ビアホールに女性がいることに驚き,かつ歓迎している。ただビアホールで一人でビールを飲む女性はまだ見たことがないと書いている。確かにそれは今でも少ないかもしれないが,居ないことはないだろう。横浜でのオクトーバー・フェストでも一人で来ていた女性がいた。ビールを飲むとトイレが近くなる,というところでは,ミュンヘンでドイツ人の友人と飲んだ時,トイレがないために,ビアホールをはしごしたとある。今でもそうなのか,知りたいところだ。漱石の「こころ」には「先生」が立ち小便をする下りがある。立ち小便も近頃とんと見なくなった。

p223 吉村昭 専門家同士を引き合わせ,一緒に三人で飲んだ時の話を書いているが,自分は二人の会話を横で楽しんでいる。私も専門家の話を聞くのは,実に楽しい。特にビールを飲みながら。

ネパールのビール2014年08月20日

ネパールのビール(全文)
古田直哉(演出家・テレビディレクタ:1931-2008)

 四年も前のことだから、正確には「ちかごろ」ではないのだが、私にとってはきのうの出来事よりずっと鮮烈な話なのである。
 昭和六十年の夏、私は撮影のためにヒマラヤの麓、ネパールのドラカという村に十日あまり滞在していた。海技千五百メートルの斜面に家々が散在して、はりつくように広がっている村で、電気、水道、ガスといったいわゆる現代のライフ・ラインはいっさい来ていない。
 四千五百の人口があるのに、自動車はもちろん、車輪のある装置で他の集落と往来できる道がないのだ。しかも、二本の足で歩くしかない凸凹の山道をいたるところで谷川のような急流が寸断している。そこにさしかかったら岩から岩へ、命がけで跳ばなければならないのだ。
 手押し車も使えないから、村人たちは体力の限界まで荷を背負ってその一本の道を歩む。
だから、茂みが動いているのかと驚いてよく見ると、下で小さな足が動いていたりするのだ。燃料にするトウモロコシの葉の山を、幼い子どもが運んで行くのである。
 むかし日本でも、村の共有地である入会山で柴を刈るときは、馬車で持って帰ることなど、禁じられていた。自分の体で背負えるだけしか刈ってはいけない。自分が背負える分量だけ刈るのなら、お天道さまに許される、という思想があったのである。
 時代はちがうが、車をころがせる道がないおかけで、ドラカ村の人びとは結果的に環境保護にもかない、お天道さまにも許される生活をしているわけだ。しかし、むかしのことは知らず、いま村人たちは、自動車の通れる道路をふくむいっさいのライフ・ラインに恵まれていない自分たちの生活が、世界の水準より下だと熟知している。だから、旅行者の眼には桃源郷のように見える美しい風景のなかで、かなりつらい思いで暮らしているのだ。
 とりわけ若者たち、子どもたちには、村を出て電気や自動車のある町へ行きたいという願望が強い。それも無理ではないのであって、私たちにしても、車が使えないここでの撮影は毎瞬が重装備の登山なのだ。車でこられる最終地点から村までは、十五人もポーターを雇って機材や食糧を運んだのだが、余分なものをいっさい割愛せざるを得なかった。
 まっさきに諦めたのがビールである。なにより、重い。アルコールとしてなら、ウィスキーのほうが効率的だ。それを六本、一人一本半ぶんずつ持てば、四人で十目間なんとかなるはずだ、という計算で諦めた。
 しかし、ウィスキーとビールとでは、その役割がちがうのである。
 大汗をかいて一日の撮影が終わったとき、眼の前に清冽な小川が流れているので思わず言った。「ああ、これでビール冷やして飲んだら、うまいだろうなあ」と。
 スタッフ全員で協議した末に諦めたビールのことを、いまさら言うのはルール違反である。しかし、私が口にしたその禁句を聞きとがめたのは、私の同僚ではなくて、村の少年チェトリ君であった。
 「いま、この人は何と言ったのか」
 と通訳にきき、意味がわかると眼を輝かして言った。
「ビールがほしいのなら、ぼくが買ってきてあげる」
「……どこへ行って?]
 「チャリコット」
  -----チャリコットは、私たちが車を捨ててポーターを雇った峠の拠点である。トラックの来る最終地点なので、むろんビールはある。峠の茶屋の棚に何本かびんが並んでいるのを、来るときに眼の隅でみた。
 でも、チャリコットまでは大人の脚でも一時間半はかかるのである。
 「遠いじゃないか」
 「だいじょぶ。まっ暗にならないうちに帰ってくる」
 ものすごい勢いで請けあうので、サブサックとお金を渡して頼んだ。じゃ、大変だけど、できたら四本買ってきてくれ、と。
 張りきってとび出して行ったチェトリ君は、八時ごろ五本のビールを背負って帰ってきた。私たちの拍手に迎えられて。
 ------次の目の昼すぎ、撮影現場の見物にやってきたチェトリ君が「きょうはビールは要らないのか」ときく。前夜のあの冷えたビールの味がよみがえる。
 「要らないことはないけど、大変じゃないか」
 「だいじょぶ。きょうは土曜でもう学校はないし、あしたは休みだし、イスタルをたくさん買ってきてあげる」
 STARというラベルのネパールのビールを、現地の人びとは「イスタル」と発音する、
嬉しくなって、きのうより大きなザックと一ダースぶん以上ビールが買えるお金を渡した。
チェトリ君は、きのう以上に張りきってとび出して行った。
 ところが夜になっても帰ってこないのである。夜なかちかくになっても音沙汰ない。
 事故ではないだろうか、と村人に相談すると、「そんな大金をあずけたのなら、逃げたのだ」と口をそろえて言うのである。それだけの金があったら、親のところへ帰ってから首都のカトマンズヘだって行ける。きっとそうしたのだ、と。
十五歳になるチェトリ君は、一つ山を越えたところにあるもっと小さな村からこの村へ来て、下宿して学校に通っている。土間の上にムシロ敷きのベッドを置いただけの、彼の下宿を撮影し話をきいたので、事情はよく知っているのだ。
 その土間で朝晩チェトリは、ダミアとジラという香辛料をトウガラシと混ぜて石の間にはさんですり、野菜といっしょに煮て一種のカレーにしたものを、飯にかけて食べながらよく勉強している。暗い土間なので、昼も小さな石油ランプをつけてベッドの上に腹ばいになって勉強している。
 そのチェトリが、帰ってこないのである。あくる日も帰ってこない。その翌日の月曜日になっても帰ってこない。学校へ行って先生に事情を説明し、謝り、対策を相談したら、先生までが「心配することはない。事故なんかじゃない。それだけの金を持ったのだから、逃げたのだろう」と言うのである。
 ------歯ぎしりするほど後悔した。ついうっかり日本の感覚で、ネパールの子どもにとっては信じられない大金を渡してしまった。そして、あんないい子の一生を狂わした。
 でも、やはり事故ではなかろうかと思う。しかし、そうだったら、最悪なのである。
いても立ってもいられない気もちで過した三日目の深夜、宿舎の戸が烈しくノックされた。すわ、最悪の凶報か、と戸をあけるとそこにチェトリが立っていたのである。
 泥まみれでヨレヨレの格好であった。三本しかチャリコットにビールがなかったので、山を四つも越した別の峠まで行ったという。
 合計十本買ったのだけど、ころんで三本割ってしまった、とべそをかきながらその破片をぜんぶ出してみせ、そして釣銭を出した。
 彼の肩を抱いて、私は泣いた。ちかごろあんなに泣いたことはない。
 そしてあんなに深く、いろいろ反省したこともない。(終)
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