明けまして、おめでとうございます!2019年01月01日

明けまして、おめでとうございます!
あまり読んでくださる方もおられないでしょうが、朝日ネットと契約している限り残るので、書き続けようかなと。
*契約が終わると消滅するのですが、出来れば、娘にでも契約を変更してでも残してほしいなと思うのですが、まぁ、無理かな。

京急・観音崎ホテル2019年01月03日

「海燕」
ただ券貰ったので、家内と京急・観音崎ホテルのランチ・ヴァイキングへ。
料理は大した事ないけど、静かで混んでいないし、ガキがいないのが良い。
もっと良いのは眺望で、沖行く船とカモメ、時々イソヒヨドリ。
目の前のプールでハシボソガラスが水を飲んでいたのでカメラを構えたら「え?」という顔をして(うそ)、飲むのをやめて飛んでしまった。やっぱりこっちをちゃんと見てるんですねぇ。
ロビーのブロンズ像は、1900年あたりに作られたというジャン・バティステ・ジェルマン(だろう)作の「海燕」。調べても不明の作家なれど、美しい。(彼方に君津の工場群がもう操業しているのが見える)
*おめかしして行くと、ボーイさんなどが丁寧に扱ってくれるのが嬉しい。

川崎散歩2019年01月07日

京急発祥の地
今日の散歩の会は、私が担当で、川崎大師とその周辺。O氏に紹介された散歩コースをそのままパクリ。参加者8名。
集合 2019年1月7日(月曜日)午前10時 京急大師線・川崎大師駅
コース 川崎大師駅⇒若宮八幡⇒川崎大師⇒瀋秀園⇒朝野田緑道⇒川崎コリアンタウン⇒港町駅方面⇒川崎競輪場⇒大師線・港町駅⇒川崎駅、磯丸水産で反省会。18000歩

京急・大師線が京急電鉄の最初の駅だそうで、明治32年、六郷橋と川崎大師との間で営業を開始したと記念碑に。
若宮八幡は、元々は鍛冶屋や鉄鋼関係の安全祈願だったが、テレビでも時々紹介される「奇祭・かなまら祭」があり、縁結び、安産、夫婦円満の守り神となったと。金床にそそり立つそれや、もっと巨大なものなど。鉄工所関係の一団がお参りに来ていた。ちょうど七日で、七草がゆを頂戴した。
川崎大師に戻るときに見かけたスクーター。イタリアのものか。
七日ともなると、混雑もさほどではない。外人が少ない。人気がないのか?
飴を切る包丁の音は、実際には切っていなくて、景気付け。
中を一巡してから大師公園でお弁当。
瀋秀園という中国・瀋陽市との友好都市提携を記念して瀋陽市から寄贈された回遊式庭園を散策。
高速道路下の緑道を抜けて通称コリアンタウンへ。立派な門の割には焼肉屋が10軒ほどあるだけで、拍子抜け。
川崎競輪場が面白そうなので寄ってみたら、場内はなく、場外はやってますとの案内嬢の言葉がよく理解できず、今日は入場無料というので、中を見学。要するに他の競輪場の場外車券売り場はやっているということだった。
ロイヤルルームという特別席もあって、見学させてもらった。
警備員に聞いたら、「走路はアスファルト」だそうだ。ヨーロッパのベロ・ドロームは板張りで、昔、中野浩一が世界選手権で接触・転倒し、背中に走路のささくれが突き刺ささり、すぐに縫って再試合して、それでもまたぶつかってきたカナダのシングルトンを肘で跳ね飛ばしたのが思い出される。
大師線・港町駅には美空ひばりの看板。すぐ先が日本コロムビアの工場があったからだ。
4名先に帰り、残りの4名で反省会。2月も都合で私が担当して、三浦海岸の「養老乃滝」で一杯、をメインにして欲しいとのリクエストなので、城ヶ島を歩いてから、三浦海岸に戻ってマグロ尽くしを堪能の予定。

漁火亭2019年01月10日

刺身定食¥850
三浦海岸のドコモショップに行って、携帯のiモードとパケ放題、iPadの契約を解約してきたので、ちょうど昼だし、娘と、念願だった「漁火亭」へ。「駐車場はありません」という割には店の前に4台止められる。歩道だけど、交差点なので歩道が広い。お目こぼしか。
刺身定食とフライ定食をシェア。ご飯は私の分は50円増しでサザエの炊き込みご飯に。
刺身はホウボウ、タイ、マトダイ、ヒラメの昆布締め、イカ、マグロ。フライはアジ、フグ(種類不明)、イカ。これで850円は良心的。
11時からラストオーダー19時半。予約可能。という事は、昼間っから飲めるし、「シコイワシのフライね!」何て聞こえてくるので、ビールに合うなぁとため息が出る。
女将の感じが良い。夏は観光客が列をなしていたけど、平日の昼は空席がある。
有名店になったろうけど、地元を大事にしている事がよく分かる。
*生はスーパードライ。

第二自主探2019年01月13日

入江邸あと
2019年1月13日 日曜日 晴
第二自主探

参加人数をチェックし忘れた。20名くらい。初参加で初鳥見という若い女性が2名。優先的に先頭を歩いてもらう。
昨日は寒かったが、夜の雨の後晴れたので、多少湿度もあり、日差しが暖かい。
アカハラやツグミ、アオジが極端に少ないのは何故だろうか?
ヤブツバキがやっと咲き始めてきたので、まだ本格的に寒い訳ではないからだろうか。
今日のトピックはノスリの若鳥だろう。
葛原岡神社の手前で、カラス(ボソとブトもいたらしい)数羽に追い立てられていた。
地面に落ちてしまい、やっと数メートルの高さの横枝に飛び乗って、じっとしていた。
周りにはカラスがつきまとっている。
ほぼ全員の参加者がその様子を見ることができた。
おそらく、餌が取れずに衰弱しているものと思われるが、まだ多少飛べるので、保護は出来ない。
様子をみるしかないし、不用意に手を出す必要はない。自然界では餌が獲れなければ淘汰される。
望遠鏡にスマホを近づけて、多少望遠側に設定するときれいに撮れることを参加者に伝え、件の初参加の女性らも手伝って撮影してもらった。
意外ときれいに撮れることに満足そうだった。
*自分のiPadは少し前に突然電池切れという警告が出て使えなくなったので、自分の写真はなし。ただし、帰り近くに電源を入れてみると普通に立ち上がった。時々起きる不具合。
*佐助稲荷へ向かう道にあった、昭和天皇に仕えた入江相政侍従長の、広大なお屋敷が取り壊されて更地になっていた。

鳥合せ トビ、ノスリ若、ハイタカ♀、キジバト、ヒメアマツバメ、アオゲラ、コゲラ、ハクセキレイ、ヒヨドリ、モズ、ルリビタキ(c)、トラツグミ、シロハラ、ウグイス、エナガ、ヤマガラ、シジュウカラ、メジロ、カシラダカ、アオジ、クロジ(c)?、カワラヒワ、シメ10+、スズメ、ハシボソガラス、ハシブトガラス、番外 ドバト、ガビチョウ 25+1?+1+1

自家製ハム2019年01月15日

自家製ハムのサンドイッチ
先日、上手に出来た(っぽい)自家製ハムで、家内がサンドイッチを作ってくれました。
今回のハムはこれ以上は(私には)上手く出来ない、というレベルでした。非常に美味い。
熟成期間がたまたま年末年始を挟んでしまい、20日間になったためのようです。
これからは熟成期間を3週間としましょう。
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海苔チーズレンチン2019年01月17日

海苔チーズレンチン
海苔チーズレンチン、やってみました。
おススメです。
不思議なことに「焼きタラコ」みたい匂いがかすかにします。
ビールに合いますが、日本酒でも行けそうです。
写真はスライスタイプのチェダーチーズ入りです。

異国船来航2019年01月19日

異国船来航
浦賀のコミュニティセンター分館(郷土資料館) 特別展「異国船来航」のギャラリートークと、浦賀行政センター3階で行われた基調講演を聴講しました。
https://www.cocoyoko.net/event/ikokusenraikou.html
どちらも、横須賀開国史研究会会長・山本詔一さんで、とてもお話の上手な方で、楽しめました。
撮影禁止なので写真なしですが、今時、写真くらい撮らせないと、ソーシャルメディアでの拡散が期待できませんよ、と言いたい。ここは残念。
展示と講演内容は「江戸時代後期、ペリー来航以前に浦賀へやって来た異国船を紹介」で、日本に資料が少なかったアメリカの捕鯨船マンハッタン号についての資料が、ニューヨークに仕事で滞在した日本人夫妻からもたらされた。鳥島で救助した日本漁民を浦賀に送り届けた。浦賀奉行所の計らいで、本来なら漂流民が外国船に救助されて届けらて場合は、長崎送りになるはずだったが、浦賀に上陸されたという。
来年は浦賀奉行所開設300周年だそうで、新たな企画があるそうだ。

浦賀のうなぎ・梅本2019年01月19日

うなぎ・梅本
浦賀のコミュニティセンター分館(郷土資料館) 特別展「異国船来航」のギャラリートークが終わったら、ちょうどお昼だったので、勝海舟が食べたという「うなぎ・梅本」へ。行政センターの前の通りの駐車場を突っ切ると梅本のある通りへ出られた。こんなに近かったのか。浦賀警察には何度も運転免許の更新に訪れていたが、「梅本」がどこにあるか知らなかった。
一番安いうな重のご飯を半分にしてもらった。出るまで20分かかる。ということは、ちゃんとさばいてから焼いているということだ。
味はというと、正直言って「池之端・伊豆榮」には及ばないかと。もちろん、不味いなんてことはないのです。使っているウナギが違うのかもしれません。香りが伊豆榮のそれではないということ。
女将に話を聞くと、店のある通りは遊郭があったので、往時は賑わったとのこと。どん詰まりにあった大きな遊郭は、女将がここへ来た時には、遊郭のお嬢さんと結婚した内科のお医者さんが病院にしたのだそうで、作りはそのまま、映画で観るような遊郭そのもので、正面に大階段があり、二階には四畳半の小部屋がたくさん並んでいて、そこが病室だったと。
勝海舟が訪れた時代は、店は今の浦賀ドックの場所にあり、海に面していたので、店から釣りが出来たそうだ。そんな話をしているうちに、講演時間が迫り、席に着いた時にはちょうど始まった時だった。聴衆はほぼ200人。満席だった。

遠い崖 第7巻 江戸開城2019年01月23日

読み終えた本(読了の方がかっこいいけど・・・)
遠い崖 第7巻 江戸開城
ーアーネスト・サトウ日記抄ー 萩原延壽(2000年)

東征軍が江戸に迫る中、横浜には部隊からはぐれた武装した新政府軍兵士が散見される様になった。横浜の治安を維持するため、各国は要所に警備兵を配置し、神奈川奉行と連絡を取り合った。この措置は新政府軍が引き継ぐまで6週間続けられた。

サトウは、江戸探索の滞在1週間、この間に行われた江戸開城の、西郷と勝の密談を知らされなかった。勝とは親しかったが、勝が徳川方の代表である事はこの時点で知らなかったらしい。わずかの期間に勝が大抜擢されていたのを知らなかった様だ。同様に西郷が江戸に、しかもサトウの住まいのすぐ近くの高輪・薩摩藩邸にいた事も知らなかった。

西郷は、江戸総攻撃の中止を全軍に指示するには、パークスから圧力があったかのように、巧みに先鋒隊の板垣参謀に言い含めたフシがある。西郷に政治家としての強かさをみる。

慶喜蟄居の間、勝も、京都から戻った西郷も、横浜のパークスを訪ねている。ドラマではあまり登場しないパークスやサトウだが、維新での重要な役割を負っている。
この時、パークスからも、前政権の責任者(慶喜)を厳罰に処するのは、西欧の公法から見ても新政権の評判を落とすと言われたようだ。
だが筆者は、「パークスの圧力」は事実上存在せず、全て西郷に一存であった、という立場だ。たまたまパークスと西郷の考え方が一緒であって、パークスは西郷に先を越されたという事か。

戊辰戦争が北方に広がる頃、サトウは日記を中断しているが、筆者は「海舟日記」で同期間のサトウの動向を確認している。三度、勝を訪れていた。(筆者が参照している文献が全てデジタル化されていたら、ずいぶん楽だっとろうと思うが、そうはいかない)

彰義隊討伐で負傷した兵士の一部は横浜に送られて、ウィリスが治療に当たった。ウィリスの感想が興味深い。
「日本側の医師も、銃砲による負傷の治療に役立つ副木(そえぎ)などの器具の使用について、既に多くのことを身に付けている。日本側の外科医が包帯や副木などの使用法を教えるシドル氏から学びとることのすばやさ、我々が様々な種類の手術を行う際に彼らが示す強い好奇心、これらを見ていると、ヨーロッパ式の治療技術が次第に日本全土に普及し、現在日本のあらゆる階級の間で広く行われている中国伝来の、あの複雑でしばしば有害な医術にやがて取って変わるのではないかという希望を抱かせる。」

サトウはリードオルガン(ハルモニウム)を弾く趣味があった。本国に楽譜を注文している。

フランス公使ロッシュは本国召還後、全権大使のまま赴任地を与えられず、30年後に亡くなった。その間、アフリカ任地の回想録を書いたが、日本については何も書き残していない。

1867年のパリ万博で、徳川昭武に同行した勘定奉行、栗本鋤雲のフランス評、米英に比し、政府があらゆる産業に介入して、自由な商業活動が出来ない、と述べている。今般、ルノー・日産騒動のフランス政府の態度を見ていると、この時代から少しも変わっていないようだ。
政情の激変を伝える日本からの各種の書状が、パリの栗本の元に次々に届くが、この時代の欧州の郵便制度が、いかに確立されていたか、また電信を使って、いかにその時間を短縮していたかが分かる。

負傷兵治療の為、要請されて会津落城直後の若松に入った元公使館付医師ウィリス(この時江戸副領事)の見聞に拠れば、そこで目にしたのは容保敗北後の会津農民の離反だった。重税に苦しんだ農民は新政府を支持し、一揆が起きた。

ウィリスの報酬を求めない献身的な治療は、新政府の厚い信頼を得た。それにより政府より請われて、東大医学部の前身となる医学校の教授として1年間は、公使館より貸与の形を取って実現した。

明治元年の11月6日、天皇の誕生日を祝って、神奈川沖に諸外国の艦船が集結し、神奈川の砲台があげた祝砲に呼応して艦船から祝砲をあげた。その様子をサトウや招待された右大臣三条や、パークス襲撃事件で暴漢を切った後藤象二郎らにサーベルを贈るなどされた一行が、サトウの屋敷から眺めていた。その時、会津鶴ヶ城は外郭が崩れ、落城寸前という状態だった。

吉原での豪遊の翌日の描写が面白い。
「夜、私の家で大宴会をした。明神前から芸者3人、コナツ、ダイキチ、コチョウと、幇間2人、サノスケ、カザンを呼んだ。真夜中までドンチャン騒ぎをした。幇間は余興に、外国人と護衛が川崎の渡し場に差し掛かったところを演じて見せた。オバラや数人の私を護衛する別手組も、進んで余興を買って出たが、これは階段を上ったすぐの部屋で、宴会を覗くことを許してあった家のものを、大いに喜ばせた。」(私=サトウ)
数日前に会津落城。

函館の榎本武揚に、各国の公使館員が次々に訪れ、それぞれの思惑が交錯する。榎本にはフランスの軍事顧問が居た為もあったからか、国際法には精通しており、強かだ。開陽丸が江差で座礁する直前の事なので、蝦夷地の独立に賭ける榎本の勢いが感じられる。

*この時代の歴史を、海外の公使館員の動きから見ると、移動・輸送手段としての(洋式)艦船の役割は非常に重要だ。どこへ行くにも船だ。速くて安全という事だろう。船の役割を見直した。